桜花荘の一千一夜   第3話 収束する三本の線





食器を洗い終えた頃には、時計の針が丁度十二時十五分を差していた。この家から駅までは徒歩で三十分ほどなので、余裕を考えるともうすぐ家を出なければいけない。真琴は既に別の番組へと変わっていたラジオを消し、財布の中を確認するとそこには十枚ほどの貨幣が入っているだけだった。

さっきの電話を思い出し計算してみるが、今日一日はなんとかなるかな思い至るとそのまま財布をポケットへしまい、簡単な外出時のチェックを終えると玄関に鍵を閉め駅へ向かい始めた。

この付近は、駅から遠いためかあまり人が住んでおらず、駅まであと半分位まで歩いて数人とすれ違っただけで、心なしか少し寂しい気分がして先程までの明るい気分が崩れてきて、そのままとぼとぼと歩いていると猫の啼き声が聞こえてきた。猫好きの真琴は、その声に招き寄せられるかのように空き地の方へ歩いて行く。

「ねこー、ねこー…あれ、どこだろう」

空き地の中は少し草が多く、集中して猫を探すが見つからない。普通ならここで諦めるのだが、猫の啼き声に悲痛さを感じた真琴は探し続ける。途中で地面に血の跡を見つけ、嫌な予感が脳裏によぎりながらも探していると、近くで何かが動く音が聞こえた。

真琴はそれを聞き逃すことなく、音の発生源の元へ歩いて行き、その場で丸くなっている猫を見つけた。

猫は左の胸辺りに傷があり、そこから血が流れ続けているのを見て、真琴は顔を青くする。

「ねこ、大丈夫?どうしよう…取り敢えず血を止めないと」

焦りながらも、ポケットからハンカチを取り出し猫の胸に巻きつけるが、出血量が多く止まる気配が無かった。しかし真琴は冷静に努めながらも応急処置をするも、今までの行いを嘲るかのように猫はぐったりとして動かなくなった。

―――助け、きれなかったんだ。ごめんね、猫

真琴は悲しみに暮れ、約束すら思い出せないぐらい落ち込んでいたが、数分ほどして急にぴくりと猫が動き出した。

「えっ?」

猫は真琴の顔を見るなり不思議そうに首を傾げ、にゃあと啼くと顔を洗い始めた。死んだかと思っていた猫が生きていた事に気付くと、真琴は泣き笑いの表情を浮かべ猫を抱きしめた。猫は抵抗する事無く不思議そうな表情を浮かべながら、しばらく真琴を見つめていたが、突然するりと真琴の体から抜け出して走り去っていった。

「行っちゃった。でもよかった、生きていて」

ほっと一息ついていると、ようやく待ち合わせの事を思い出し、急いで駅に向かって走り出した。

 

駅に着くと、案の定人はまばらにしかおらず、真琴と同じように待ち人がいると思しき人は一人しかいなかった。その女性は真琴と目が合うなり、こちらの方へ歩いてくる。心なしか、薄く笑みをこぼしながら。

「椎名さん…ですか?」

「えぇ、貴女が黒川さんですか?」

「はい、黒川かやと申します。今日はよろしくお願いしますね」

黒川と名乗るその女性に真琴は、比較的良い印象を持ち、「それでは行きましょうか、実はですね―――」と歩きだし今までのことを語りだした。元々話好きで、好印象の相手とはいつも無駄に長話をして余計なことを言ってしまう癖を持っており、本人は気にしているらしいが全然改善される気配が無く、今回もだらだらと話していた。

「―――というわけだったんですよ。だから僕自体正直わけがわからなくて、桜花荘にさえ今日初めて行くんですよ。あっ」

一段落話を終えたところで、自分がまた一方的に長話をしていたことに気付く。

「すいません、いつもの癖でこっちばっかりずっと喋っていて。煩わしかったでしょう、本当にごめんなさい」

「いえいえ、私も楽しめたし気にしてませんよ。それにしても、なんだか漫画みたいな話ですね」

真琴はうははと笑い、確かに漫画みたいだなと呟きながら歩を進めるが、気付けばもう桜花荘のすぐ近くだった。

桜花荘は、合流地点からさほど遠いところでもなく、少し街の喧騒さが消えかけている「町」と「街」の間のようなところにぽつんと点在していた。何処にでもありそうなアパートに、何処にでもありそうな狭い庭。しばらく手をつけていなかったせいか、本来は何も無いであろう庭には枯葉がまばらに積もっており、庭の端にある既に散ってしまったソメイヨシノが寂しそうに佇んでいた。

「えっと、ここが桜花荘みたいですね。それにしてもやっぱり散らかってるな」

「街からも程よく離れていて、いいわね。ここ」

「確かに、うるさ過ぎず寂し過ぎず、絶妙な場所ですね。でも庭が散らかっているから掃除しないと…その前に、部屋を見てみましょうか」

「そうね、案内お願いしますね」

現在は物置として使用されているこの建造物。伯父曰く、2~3部屋は置くものがなくなった為ただの空室になっているとの事で、現在空いているらしい部屋は101号室と102号室。まだあるかも知れないがそれ以上は未確認であると言われただけで中の構造も知らない真琴は一抹の期待と不安持ちつつ、かやを案内する。

鍵を使って扉を開くと、室内に積もっていた埃の一部が外側へと飛び出し、真琴たちへ降りかかる。突然の事に対処しきれず真琴は咳き込んだが、かやは何事もなかったかの様子で「大丈夫ですか?」と言ってきた。

「えぇなんとか。それにしてもどうして黒川さんは咳き込んだりしなかったんですか?」

「話を聞いた限りだと、部屋の中も凄いらしいから、開けた直後に埃を吸っちゃうかもしれないなと思って息を止めていたのよ」

真琴は成る程と納得する反面、その位出来て当たり前だったのに自分は出来なかったと、自責して軽く落ち込むが、その程度で落ち込んでしまってはこれからの事には何も出来なくなるに決まっている。と半ば無理矢理自分に言い聞かせる

「それじゃあ入りましょうか」

「えぇ、外から見る限りでは狭そうには見えないですね。中々住みやすいかも」

「そうですね、うあやっぱり埃が凄いや。引っ越してから掃除が大変そうですね」

なんとか元通りの気分に戻り、部屋の中へと入る。中はまるで新居のようにがらんとしていたが、数年放置された賜物である埃の量が新居ではないことを物語っていた。真琴は準備していた内履きを取り出し一言。

「どうぞ、こんな事もあろうかと思って準備していたんです」

「ありがとうございます、あっでも椎名さんの分は?」

「大丈夫ですよ、ちゃんと準備―――」

真琴は自信満々に手提げから、準備していた筈のもう一組の内履きを取り出そうとしたが、そこには何故か靴べらが入っているだけだった。出るときそんなには急いでいなかったが、ついつい入れ忘れてしまったようだ。

「忘れたんですか?私はいいですから使ってください」

「いえいいですよ、僕は。元から準備していませんでしたし」

かやが気を遣うように言うが、真琴は恥を隠そうとしているのか、分かり易い嘘を吐いて申し出を断る。かやは少し指摘をすれば面白いだろうなと思ったが、会って早速そういうことをするほど意地悪ではない。と思い至り、一言「借りますね」と言ってそのまま内履きを履き奥の方へ進んで行く。

「気付かれなかったかな、良かった」

と真琴の呟きが耳元に聞こえてきて、思わずにやけてしまうがこの顔を見られたら気付かれるので、すぐに真顔を造るが今にも顔が元に戻りそうになるが、集中して真顔を保ち続けた。それにしても空気が悪い。少し息を吸ってみるが、肺に毒物を流し込んでいるとしか思えない不快感。かやは近場の窓を全開にして深呼吸をした。

少し真琴は悩んだが、自分が上がらねば折角誤魔化したのに疑われてしまう。靴下が汚れるよりもそっちの方が恥ずかしいので、仕方無しに靴を脱ぎそのまま上がり込む。埃の感触が非常に不愉快だが、この際文句は言えないのでそのままかやの元へ歩いていく。

「それにしても中々広い部屋ですね。他の部屋もこんな感じなんですか?」

聞こえなかったら意味がないのでかやは少し大きい声で真琴へ問いかける。埃の不快感と格闘しながら、かやに負けないぐらいの大声で答える。

「そうですよ、それにどちらの部屋も眺めは変わりませんね。どうです?」

「とても良い物件ですね。すぐにでも引っ越したいぐらい」

「それは良かった、書類などの手続きは後日で良いですから。あっそうだ、ちなみにいつから住みはじめます?」

「明日からいきなり…とか駄目ですよね?自宅から大学まで遠いので、その方が何かと助かるんですけど」

「良いですよ。僕も明日からここに越してくるつもりですし」

「やった。あれ?思ったより時間が余っちゃったな…少し話しません?」

と言うと、真琴の返事を聞かずに語り始めた。曰く、城聖大学と言う大学に在学しててそこから自宅が遠かったから住居を探していた事。曰く、趣味が絵描きなので近いうちに絵を描かせてくれだの、三十分ほど語り続けた。

「今度は私が長話しちゃいましたね。ごめんなさい」

「いえいえ……そうだ、明日からお隣さんなんですから。それに黒川さんは年上ですし、敬語を使わないでください。なんだか恥ずかしいですし。それと僕の事は真琴と呼んでください。その方が呼び慣れてますから」

「わかりま―――わかったわ、私の事はかやでいいから。よろしくね、まこちゃん」

かやは満面の笑みで真琴に挨拶をしたが、呼称が呼称だったため真琴は顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。数秒ほど沈黙は続き、そのままの表情でかやが少し真面目に問いかける。

「どうしたの?何か気に障ることでも言ったかしら」

「まっ、まこちゃんってそんな…他の呼び方にして貰えません?」

十代後半に入り、そのような呼称で呼ばれるのは恥ずかしいことこの上ない。そのため真琴は精一杯の対抗を見せる。しかしかやは

「だ〜め」

と満面の表情を崩す事無く言ってのけた。これ以上反論してもあの一言で返されるのは目に見えていたので、真琴はさり気なく話題を転換する。

「あっ、餡蜜はどうします?奢る約束だったし」

「そういえば、そういう約束もしてたわね。だけど今日はいいわ。まこちゃんと話してお腹いっぱいになったしし、また今度奢ってもらうわ」

かやが何を言ってるのか真琴には理解できなかったが、取り敢えず今回は餡蜜を奢る必要がないと判断する。「まこちゃん」という呼称は気にかかるが、特に悪意は感じないし気にしない事にし、真琴は現時刻を確認する為に懐中時計を取り出し時刻を確認する。

針は、午後二時三十五分を回ったところだった。そろそろ家に戻って荷造りをしなければ支障をきたしてしまうかもしれない。少し困ったような表情を浮かべながら問う。

「時間は大丈夫ですか?もう二時半過ぎてますけど」

「嘘、半から約束してたんだけど、間に合わないか。まあ事情を話せば許してくれるかな。少し長話が過ぎたかな。それより今日はありがとうね。最初怖い人が管理人だったらどうしようと心配したんだけど、まったく逆のまこちゃんが管理人で安心したわ」

そう言うと、かやは開けた窓を閉め始めようとする。

―――時間がないのにこういう事はしっかりとしてくれて、やっぱり良い人だな。

と思うや否や、かやに一言。

「僕がやっておきますよ。時間がないんでしょう?早く行ってあげないとその人に悪いですし」

「いいの?ありがとう、じゃあまた明日会いましょうね。さようなら」

喋りながら走り出したかやを目で追い、見えなくなってから窓を閉めだした。自宅のとは少し勝手が違ったため、手間取ったがなんとか全て閉め終えると真琴は家へと帰り、それからは荷造りを続けていた。

 

翌朝、伯父が直接閉め出される事を恐れてか、いつもより早く朝を迎えた。歯を磨き、顔を洗いながら、今日一日のことを考える。多分あと一時間程で伯父が来るから、その時にはすぐにでも家を出る準備を終わらせていなければならない。荷物は日常生活品を含めると相当な数になったためその旨を告げると、伯父が軽トラックを運転してくれるとの事になった。

顔をゆっくりと拭いて、居間の方へ向かう。そこの卓上には既に昨晩作り置きしていた食物が並んでいた。皿は汚れないようにキッチンタオルを敷いているため、食後はキッチンタオルを捨てるだけで済む。

いつものように座り、いつものようにきっちりと「いただきます」と言い、少し少なめの朝食を食べる。

食後、皿を荷造りした荷物の中に入れ、それ以外は特にする事もなく暇つぶしにラジオを聞いていた。時間が早いせいかニュースしかやっていなかったが、この際暇を潰せるのならどれでも良いと言う事で、どこぞの村で地方行事をやっているだの、明日の南国の天気は雨だの無駄な知識を蓄えていると、玄関から呼び鈴が聞こえてきた。何度も苛立たしいのか連続で聞こえる呼び鈴の音から伯父と判断し、急いで荷物を背負う。軽く十kg以上あるその荷物は真琴の肩を圧迫するが、それを我慢しながらよろよろと歩き出すが、数歩歩いたところで祖父から受け継いだ刀の事を思い出し取りに戻るとまたおぼつかない足取りで玄関まで歩き出す。

 

伯父の車が走り出し、桜花荘の前には真琴一人だけとなっていた。家のすぐ外に荷物を全部置いておいたので、今は箒と塵取りを持っているだけだった。伯父を見送った後から今日を乗り越える難関の一つである部屋の掃除を始める事にしていたが、さすがにあの大量の埃を前にして戦意を削がれない筈がない。

しかし、掃除を始めないと埒があかないので、しぶしぶと室内へ戻ろうとすると昨日と同じような猫の鳴き声が聞こえてきた。少し気になった真琴は回れ右をして辺りを見渡すが、何もいない。敷地の外から聞こえたのかもしれないが、今は構う余裕がなくそのまま屋内へ入ろうとすると、男性の声に呼び止められた。

「ちょっと待って下さい。貴方がこいつを助けてくれた人ですか?」

真琴より二十センチほど背の高いその男性は、猫を抱きながら真琴へと問いかける。真琴は猫を凝視すると、その猫が昨日助けようとした猫にそっくりだということに気付き、頼りない声で「あ、はい。そうですけど…」と答えた。

「よかった、気付いたらわいまーるがいなくなって。あっわいまーるって言うのはコイツの名前です。それで、いつの間にか体にハンカチを巻きつけて戻ってきて、それでコイツに聞いたら案内してくれたんです」

「そうだったんですか、頭良いですね、わいまーるは。わいまーる、もう大丈夫か?」

男性の説明を聞き、真琴は心配そうな表情を浮かべてわいまーるを撫ぜるが、昨日の怪我が嘘のようにとても気分良く一啼きした。

「今日越してきたんですか?見たところそんな感じですけど」

「そうなんですよ、色々あって」

「じゃあ、貴方一人じゃ大変でしょうから僕も手伝いますよ。わいまーるのお礼というわけで手伝わせてください」

「そうですか…悪いとは思いますが、断れないや。この荷物一人でなんとかするのは難しいから、お願いします」

真琴はわいまーるを抱いて深々と頭を下げると、正樹が何か言おうとしたが近くからエンジンの音が聞こえてきた。

「どうしました?」

「いえ、なんだかこちらに車が来てるみたいですね。あまり車なんて普及してないのに珍しい」

正樹が関心をしていると、その音の主であるカエル印をつけたトラックが、桜花荘前で止まり、いきなり荷物を運び出した。どうやら引越し業者の類のようだ。助手席からは昨日長話をしたかやが出てきて真琴らに挨拶をする。

「まこちゃん、こんにちは。えっと、そちらの方はどちら?」

「黒川さん、こんにちは。この方は昨日話した猫の飼い主さんで、わざわざお礼に来てくださったみたいです」

「はじめまして、わいまーるの飼い主の吾平正樹と申します。よろしくお願いしますね」

「黒川です、かやと呼んで下さい。よろしくお願いします」

引越し業者が次々と103号室前に荷物を置いていく中、三人はわいまーるについて楽しげに談笑していたが、業者が居なくなっているのに気付き話を切り上げるように正樹が言い出した。

「それでは、まず真琴くんの部屋から掃除しましょう。それから黒川さんの部屋、最後に庭の掃除をしたら三人で小さなパーティをしましょうか」

と、真琴の部屋に向かって歩き出す三人。その後姿は、とても仲の良い家族に見えないこともない。今日は楽しい一日になることを確信した真琴は、純粋に嬉しそうな表情を浮かべて「いいですね、ってわいまーるの事を忘れてますよ」と突っ込むと、正樹とかやは声を上げて笑い出した。

 

三つの線は一つに収束する。


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