老父の家と裏の納屋が見えた。相変わらず、送り火がほの暗い納屋の周辺を照らし続けていた。それを目の当たりにした永瀬は安心感に満たされた。とりあえず自分は生きているんだ。今日にでも市街地に出て、本土へ有線電話で連絡を取るのが最善の策だ。永瀬は自らそう思い込んだ。そして、拳銃をホルスターに戻し、懐中電灯を片手に納屋の前を通りがかった。ふと、目を閉じた瞬間、また奇妙な映像が頭の中に滑り込んできた。しかし、先程ほど彼女は驚く事も無く、視線から見える景色を探ってみていた。やはりお世辞にもあまり見やすいものではない。一体どんな理屈なのだろうか。詮索すればするほど混乱しそうな状況であるが、この現象を科学的に調査してみる価値があるのかも知れない。もしかして柘植の狙っているものと何か関係があるのだろうか。そんな事を考えているうちに、瞼の裏で展開されている映像が次第に鮮明になってきた。
------私?
その視線の持ち主は、立っている自分の自分の姿を、横の少し高い位置から見ているようだ。永瀬は目を開け、左手を見ると、二階建てのほとんど廃屋化した納屋があった。たしかあの老父の娘夫婦の孫が寝ていると聞いた。此方を見ているということは、もしかして起こしてしまったのだろうか? 同じく子持ちである彼女は、我が子に接するかのように其方に問いかけた。
------起こしちゃった? ごめんね・・・。
永瀬は何も無い暗闇に問いかけると、丁度二階の窓から何かが顔を覗かせた。みるとそれは、五歳ぐらいの少年の顔であった。暗闇なのであまり容貌までは判別できないが、まだあどけない表情をした子供の顔が無邪気に納屋の二階から此方をみているのだ。彼の両親はじき迎えに来るとあの老父が言っていたのを思い出し、永瀬は別れ際に手を振って母屋へと入っていった。
------戻ったわ・・・雨はやんだみたいね。
いきなり開け放たれた扉の音に一瞬驚いた表情を見せたが、老父は玄関口に駆け寄ってきた。手には先程の小銃が握られていた。
------大丈夫だったかね?
そう聞くと、永瀬が何か言う前に今しがた彼女が入ってきた戸口に駆け寄り、外を見回した後にいそいで閉めた。永瀬を心配するというより、他の何かを恐れているように見て取れる。
------搭載されていた無線機も駄目だったみたいね。連れも居なかったわ。あとで町に出て外部に連絡を取ることにするわ。車を借りても・・・
------この島はもう終わりだ・・・。
永瀬の言葉を遮るように、老父が言い放った。二人の間に沈黙が流れた。永瀬には老父のいう事が理解出来ていなかった。この島はもう終わり? 一体どういうことだ?
------え・・・?
老父は小銃を肩から下ろし、項垂れる(うなだれる)ように続けた。その表情からは先刻の少々品に欠けるほどの活力は全く想像かつかず、まるで別人のようであった。
------神の怒りに触れたんじゃ。どうあがこうが、この呪いからは逃れられない。いつか起こるとは思っていたが、まさかこんな形で・・・。
老父がそこまで言いかけた時、今度は彼自身の言葉が遮られた。しかしそれは永瀬ではなく、家屋の奥から突然した物音によってであった。老父は暫し永瀬と目を合わせながら、小銃を手に家の奥へ走り出した。それに反応して、永瀬も土足のまま老父の後を追った。
------待って!
老父を追って家屋の奥の木造の廊下へ走りこんだ永瀬は、突き当りで何かに向け小銃を構えている老父を見つけた。彼の表情は怒りとも落胆ともつかない表情を浮かべながら、今にも引き金を引かんとしていた。しかし、ここからでは彼が何と対峙しているのかは分からない。
------一体何がどうしたっていうの!?
老父はただただ小銃を構えているだけであった。痺れを切らした永瀬は、老父の横へ駆け寄り、彼が銃を構えている方向を目の当たりにした途端目を疑った。
------な、何これ・・・!?
彼等のいるところから五メートルと離れていない所にそれは居た。
それは小さな人間の体の頭の部分が、巨大な「貝」としか形容の出来ない物体と取って代わった異形の生物であった。カーキ色のパジャマを着込んだ小さな子供のような身体に、巨大で、色鮮やかな照かりをおびた「巻貝」が乗っているのだ。それが一歩一歩こちらに確実にゆっくりと近づいてきている。それはおおよそ子供の体型から想像されるものよりも遥かに重量感があった。
永瀬に出来る事は一つであった。腰の後ろのホルスターから拳銃を取り出し、その異形の「貝」めがけて照準をつけた。横で老父が、今しがた自分が助けた女性が拳銃を構えているのを見て少しばかり驚いた顔をしていたが、すぐに緊張に満ちた表情を取り戻し、小銃を構えなおした。永瀬は照準を合わせたまま老父に叫んだ。
------あなたは納屋の御孫さんを連れて逃げなさい! それからすぐに警察に連絡して!
警察に、か。貝の化け物が現れたから助けてくださいとでも言うのだろうか。少々笑い話のようにとれる。しかし永瀬の目の前で起きている状況は明らかに常軌を逸しているものであった。一方、老父は彼女の問いかけにも応じず、更に歪んだ表情を浮かべ、小銃を構えている。その異形は一歩一歩二人の所へ近づいてきていた。すると最中、老父は理解しがたいことを言い出した。
------銃を下げて出て行くんだ、お嬢さん・・・。
永瀬は老人の顔を不思議そうに見た。一体何を言っているというのだ。彼女は銃を構え、更に前進しようとした。見れば見るほど異様なものだ。老父の問いかけに彼女は反論した。
------何を馬鹿な・・・
すると突然、老父が片手で彼女の手からリボルバーをもぎ取り、床に投げ捨てた。
老父の奇妙な行動に呆気にとられるばかりの永瀬は少々怒り気味の声色で叫んだ。
------何て馬鹿なことをするのよ、頭おかしくなった?!御孫さんを連れて早く逃げなさいと・・・
すると、次に老父から放たれた言葉は俄かに耳を疑うものであった。
------徹、下がってくれ! 私はお前を撃ちたくないんじゃ!
------え・・・?
どういうことだ。もはや彼女の理解の域を超えていた。徹というのは恐らく先刻納屋で二階から顔を見せた幼い少年、しいてはこの老父の娘夫婦の孫の事であろう。しかし、今確かにこの老父は、この目の前に立ちはだかる異形の化け物を「徹」と呼んだのだ。拳銃を叩き落とされた永瀬の目の前で、更に忌まわしい出来事が展開した。その「貝」の下に空いた穴から、泡立つような音がし、そこから粘液の光沢をおびた円筒形の極めて有機的なホースのようなものが飛び出したのだ。彼女は嫌悪感を覚え後ずさった。そして、そのホースがびちゃびちゃと気色の悪い音を立てながら鎌首をもたげ、その先端が此方に見えた。そしてその先端に形作られていたものを目の当たりにした瞬間、激しい震えが彼女を襲った。あの、二階から覗いていた少年の顔がそこにあったのだ。
------オ・・・ジィ・・・チャァ・・・ン・・・・。
腰を抜かした永瀬が木造の床に座り込み、足をばたばたさせながらその異形から身を遠ざけようとしていた。しかし、老父は目の前で小銃を下ろし、床にそのまま力なく落とした。
------徹・・・ごめんよ。おじいちゃんが悪かった。こっちへおいで・・・。
彼女は横から、老父の顔を覗き込んだ。感極って潤った目に、老いた身体を震わせながら一歩一歩その異形に近づいていった。そして、その異形の少年の頭を自らの懐に抱きこんだ。すると、間髪居れずに何かを刃物で抉るような鈍い音が響いた。生暖かいものが永瀬の顔に飛び散った。永瀬はそれを手に取ると、それが血である事を即座に理解し、目の前で起きている事を把握するために顔を上げた。
異形の少年を胸に抱きこんだ老父の腹を、巨大な「銛」が貫通していたのだ。
白目をむいた老父が足を宙で痙攣させ、口から血を流しつつ、異形の少年が頭を一振りした瞬間に地面に叩きつけられた。その異形の少年は、その忌々しい顔面を老父の血で真っ赤に染め口からは先刻老父の身体を貫いた銛、いや、正確にはエナメル質で出来たような大きい棘、がのぞいていた。そして、その「死」をそのまま具象化させたような「顔」が永瀬を視線に捕らえた瞬間、永瀬の身体は自由を取り戻していた。ただ分かる事は一つであった。
殺される。
彼女は死に物狂いで老父の落とした小銃をとりあげ、その異形の少年の「貝」へ向け、即座に引き金を引いた。肩に与えられた衝撃(リコイル)が永瀬に生きる意志を取り戻させた。銃声とともに、その異形の少年は、頭の「貝」に弾丸を受け、ヒットバックしたものの、またすぐに体勢を取り戻し、永瀬に向かってきた。弾丸の命中した箇所は、少々傷がついただけで殺傷には至らなかった。直感から、永瀬は小銃のボルトを引き、再装填した。その瞬間、異形の少年が奇声を上げながら駆け寄ってきた。永瀬は悲鳴を上げながらも、飛びついてきた貝の化け物の顔が収納されている「穴」に小銃を突っ込んだ。相手の勢いで床に押し倒されてしまったが、小銃が「穴」を塞いでいるせいで、銛を出す事が出来なくなってるようだ。異形の少年の幼い手が永瀬の肩をつかんだ。一際大きな悲鳴が上がった。
彼女は引き金を引いた。
炸裂音とともに、怪物の動きが止まり「穴」から耳障りな奇声が響き、その異形の少年は彼女の真横の地面へと倒れこんだ。すると、舌なめずりのような音とともに、顔のついたあの円筒部分が、貝の外に飛び出したまま絶命した。赤い血か水か、顔面の裂傷から漏れる液が木造の床を濡らし始めた。
永瀬は、化け物の体液に覆われた小銃を投げ捨て、焦点のあわない目で数秒間、その異形の亡骸を見ていた。そしてようやく息も切れ切れに、壁を頼りに廊下に立つと、老父に投げ捨てられた拳銃を拾い、死人のような表情で母屋の表へ向かった。
外に出ると既に日が出ており、多少霧に視界が遮られているものの、懐中電灯無しでも行動する分には支障は無かった。拳銃を片手に、永瀬は納屋の裏側へ走った。すると、木材や農具が置かれているプレハブに、二人乗りの業務用軽トラックが横付けして止められていた。彼女はトラックに駆け寄ると中を覗いた。どうやらイグニッションキーはかかっていないようだ。それを確認すると、農具置き場から大型の加圧式の農薬散布器を引きずり出し、窓ガラスに叩き付け、ドアロックを解除しドアを開放した。
運転席に潜り込み、イグニッションを取り外し、配線を露出させると、対極の線同士を接触させ、エンジンスターターを作動させた。エンジンの駆動音を確認すると、線を結びつけイグニッションを閉じ、運転席に乗り込み、ドアを閉めた。ギアをローに切り替え、サイドブレーキを外すと軽快な音を立て、永瀬の運転する初期型アクティが納屋の前を抜け、山道へ出た。
軽トラックは赤い土を撒き散らしながらも、十分な馬力で下山していった。すると、彼女の視線の中で何かが動いたような気がした。ふとサイドミラーに目をやると、母屋の方でごそごそ何かが動いているのが見えた。先程殺害したはずの貝の化け物がゆっくりと母屋から出てきているではないか。彼女は戦慄したが、とにかく今は下山することしか頭においてはならない気がし、そのままアクセルを踏み込んだ。
ふと標識が目に入った。
------小字浦郷 この先2km