この島の駐在所に配属されてから、かれこれ一年になるであろうか。
小字浦郷駐在所にただ一人、岡山県の学南町から転属された若い巡査の飯田幸一は、この島のかもし出す異様な瘴気から身を遠ざけるかのように、駐在所のシャッターを閉めた。何だってこんな事にきりきりしなくてはならないのかと落胆の溜息をついた。郷土の慣習を重んじる事は、彼自身そして彼の家系の人間の間でも大切にされてきた事であるが、それが社会の制度や常識に皺寄せされるのは行き過ぎだというのが彼の結論である。犯罪というのはこういった隙を狙うものだ。

彼の都内配属時代の旧友である石田徹雄も、閉鎖的な雰囲気の漂うどこかの県境に位置する羽生蛇村と呼ばれる集落に派遣されて、二年前の土砂崩れで帰らぬ人となった。
聞けば、以前からその地域は地盤の歪みが甚だしく、路面に赤い水が染み出てくる時もあったと、石田本人から居酒屋の飲みの席で聞かされたのをよく覚えている。その村にも一定期間ごとに行う伝統儀式があり、村人達は当然、警察官である石田自身さえも行動に暗黙の内の規制がかかっていたと聞いている。



もし彼が公務に従い、自由に駐在所を離れることができ地盤の歪みが生じている箇所が見つかっていれば、事前に避難勧告を出し、村人の三十三名が行方不明になるなどといったことはなかっただろうに、とつくづく思うのである。しかしながら、現在同じ様な境遇にある飯田には、それがわからないでもないな、と思うこともあるのが事実である。むしろこの地に根付いているのはカルト教団ではないかと思わされる事も多々あったのである。こういった場所に長年居つくと、警官である自分でさえも、不思議とその慣習を受け入れてしまうもので、その巨大且つ狂信的な存在の前には、一人の公務官なぞ象の足元の蟻であるかのような錯覚を起こさせられてしまうのだ。故に、今の自分はただただ他所への配属を待ちつつ、このまま定年を迎えるまで何事にも巻き込まれずに居る事を願うだけなのである。平和が一番とは言ったものだ。ふと学生時代に非日常的な体験を望んで警察官への就職を志した自分が愚かに思えてきた。飯田はにやりとし、冷蔵庫から一本の日本酒を取り出した。これもまた旧友からもらったものであり「三隅酒-大予言-」というラベルの張られた酒瓶の王冠を開放し、戸棚からマグカップを取り出し、軽く洗浄するために簡易炊事場の蛇口を捻った。冷たい水がマグカップの中に注ぎ込まれたのだが、飯田は顔を顰めた。水が少々赤みがかっていたのである。水道管が錆びているのであろうか。

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全くこの島は何から何まで

彼は再び落胆の溜息をつくと、マグカップの水を捨て、その中に旧友からの贈り物を注ぎ込んだ。そして、空に軽くカップで乾杯をし、今は亡き旧友へ祝盃を挙げた。





                     小字浦郷/山道南側入り口
吾平 正希        前日/22時34分52秒




 黒雲が覆いつくした下を夜の暗闇が支配する中、潜在潜行体勢で静まり返った家並みの間を駆け抜けていく二つの人影があった。前方を行く暗視照準器を搭載した自動小銃を構えた年嵩の二尉には、この夜の帳の中を駆け抜ける彼自身の鼻先に当たる、少々潮風の混ざった空気がどうにも異質なものに思えて仕方がなかった。彼自身夜間訓練には幾度となく従事することがあり、丑三つ時の山中の寺院や富士山麓樹海まで、俗に霊験あらたかとされている場の数々の闇の深遠まで目にしているが故に、その彼の理路整然とした陸自の気迫に影を落としているのはもっと別に理由がある事は実に明瞭であった。

 先刻、島の北部の山中からの徒歩移動の最中に降りてきた山道は、日中ならば一山超えるだけで小動物の数匹も目の当たりに出来そうな原生林の中にあり日没後には何とも霊妙な静けさが舞い降り、波打ち際の轟きと夜風に靡く木々の葉が醸し出す旋律がただただ星の広がる夜空に響くものであった。

しかし、明らかに今は何かが違う。

 異様な空気を察している狙撃兵を援護する、この漆黒の中では更にその白金色の容貌が際立つ吾平正希もまた、この島全体をこの世ならざる存在が侵食しているような気配を自ずと察していたのだ。先程小一時間かけ下ってきた山道には、動物の姿どころか気配が全くといっていいほどせず、不自然な事に満潮の時刻をとうに過ぎていても波音は全く聞こえず、海は躍動感をなくし木々の隙間からさも展示された油絵の風景画のような静寂を落としていた。そして草木はその生気を失ったかのように、ただただ無機的な存在感をそこに残しており、山道を駆け抜ける二人に、陳列された亡骸の横を走っているような印象を与えていた。

 吾平は忙しなく夜空に目を向けていた。夜空の所々が奇妙な赤紫色を放っていたからである。吾平はぼんやりとした既視感に見舞われたまま足を走らせていた。この高揚感は確か市ヶ谷の陸自ベースから離陸して、あの夕日を見た時のものに似ており、彼を幼少時代に回帰させたあの地獄。言いようの無い奇妙な懐古感に吾平は浸っていたのだが、前方で小銃を肩から提げ、島の居住地である小字浦郷(こあざうらさと)の最北端に位置するコンクリート造りの極めて村の体たらくとは対称的な役場関係の建造物の閉ざされたシャッターの前でこちらをじっと見ている近城を認識すると、職務を執行する際の心持へと戻った。しかしながら生き物の血肉のような赤紫色の空を視界から外す事は彼には出来なかった。それでも迅速且つ機敏な動きで、二つの人影は所々切れかけた街頭のある無人の商店街を、駆け抜けていった。

小字浦郷の街中では更に異常な光景が広がっていた。

雨戸の閉じられた商店や住宅街等、一軒につき一つないし二つの割合で、明かりの灯された灯篭が置かれていたのだ。盆には送り火・迎え火を焚くものであるが、明らかに配置が異様過ぎる。これもあの儀式とやらの一環であろうか。そうは思ってみたものの二人には島全体の静寂さと相俟って、どこぞの新興宗教団体の悪魔崇拝儀式のように思え、暗視装置の緑色の視界から映る、淡淡と揺らめく等間隔で延々と道なりに続くこの光景がどうにも死人を送り出すために参列する人々の手にされた堤燈のそれに見えて仕方がなかった。

自動小銃を持った近城が、道の一角一角で前方で通行者と鉢合わせしたりなどせぬように立ち止まっては前方を目視し後方で殿をしている白子肌の青年に合図を送り、着実に前進し続けていた。最も現在通行人がそこにいるはずもないのであるが。そしてその理由もまた、柘植から聞かされていた。そして、それは奇妙奇天烈で俄かに非現実的な話ではあったのだが、非現実的なのはこの任務自体なのである。柘植はただこう言った。

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「御岬廻り」の行われた日の夜に一人だけ歩き回っている異形の頭をした人間がいる。

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そいつを遠隔射撃し、迅速に頭部を奪取するのだ。いいか、くれぐれも近づくな。

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それから、どんな重傷を負わせてもそれは二分足らずで生き返る。そいつはもっと早いかもしれないし、遅いかもしれないが、とにかく奴らは死ぬ事はない。

この任務の説明を柘植から聞いている時に、真横で吾平が馬鹿にしたような表情を浮かべいたせいで、柘植が人が変わったかのような剣幕で吾平を怒鳴り散らしたのを近城は覚えていた。そしてその日は一日中ずっと食堂で吾平の愚痴を聞かされていたことも。

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あいつ普通じゃないっすよ。狂人ですよ狂人。狂った世界の住人。

吾平の言葉を借りたわけではないが、この密命を受けた時から、どことなく狂った世界に迷い込んでしまったような気がしていたのだ。吾平に至っては、いつもの事ではあるのだが空を浮遊する無数の巨大な赤ん坊が、夕焼けをバックに此方に接近してくるという夢を見る等と言っていたのだ。そして今、あの世とこの世の境界線に立たされているような状況に錯覚する。とにかく、この不気味な空が物語っているかのような人知を超越した何かがこの身に迫ってきている気がする。気がするのではない。明らかに迫りつつあるのだ。

「ここより浦郷集落」

土手の上でその立て札を見つけたときには、下山してもう20分あまりが経過していた。気のせいか、移動距離を重ねていく毎に、いいようのない不安感は次第に二人の心を支配しつつあった。そして互いに彼等はそれをそれぞれが受けていることを感じ取っていた。近城は集落の入り口に最も近い家屋の壁につくと、八九式自動小銃を手にしたままもう片方の手の指を吾平に見えるように振った。分散しろ、の合図だ。