暗闇の中で潮風を含んで硬度を増した土壌の上を駆けずり回る二種類の足音が響いていた。一つは限りなく島民として純粋な血筋をもった住民が住む集落の東側。そしてもう一つは島の権力者の領土である家系の住む東側。表札は全て「高祖」であった。集落の東側は蔵造りや木造の住居が密集し、長い土壁が迷路のように入り組んでおり、夜の闇による不可視も相俟って、さも無限回廊を回らされているかのような感覚に陥った。吾平は、一角一角でそこに人影がないかどうかを綿密に確認し、区間毎に一箇所一箇所を確保していった。その過程で分かったのだが、どうやらこの集落は大型商店の商品棚のように、入り口側に面した通路からなら、集落における全ての区間の通路を見渡せるようなのである。これでは留置場ではないか。吾平はそんな事を考えながら、最後の区間を曲がった。
背後で何かが動く気がした。
吾平に突然緊張が走った。素早い動きで背後に向き直り、機関拳銃を前方に突き出して区間の曲がってきた辺りを暗視装置を通して見た。迎え火の灯った先の曲がり角。吾平は息を潜め、その物音がしたあたりにゆっくりと近づいていった。距離にして5メートルで、そこから先は曲がり角の向こう側であり、手前の壁から手向けられた迎え火の光量が暗視装置によって過度に増幅され、此方からは全く見えない。双眼式の暗視装置を頭の上に上げ代わりに手にした機関拳銃のフレームに装着されたシュアファイア(米国製の高出力懐中電灯)を点灯させ、光線をそこに当てた。確かに何かの気配がするのだ。奴なのか。吾平は壁に背をつけ、機関拳銃を構えながら確実に角に向けて前進していった。すると、またもや物音がした。しかし今度は確実に吾平の耳に入り、彼にはそれが何であるか容易に確認できた。二人もしくはそれ以上の女性の会話である。そしてそれは角の向こうではなく、吾平が今背を密着させている壁の裏側から響いてくるものであった。壁との距離が縮んだので、声が伝わりやすくなったのだろう。吾平は息を潜ませたままその壁の隙間に近づいた。そこからは僅かに光が漏れており、それは壁の裏側に存在する住居からのものである事は明瞭であった。そして、二種類の人声の正体もそこであった。吾平はゆっくりと隙間を覗き込んだ。まず目に飛び込んだのは、壁のすぐ向こう側にある庭先の灯篭に照らされた、木造建築住居の窓枠であった。そしてその向こうでは、二人の人物が向かい合って会話を交わしており、両者とも至極神妙な顔付きであった。片方は八十過ぎ程の老婆で、もう片方は十代後半ぐらいの非常に美しい容貌をした腰ほどまでの長い黒髪の和服の少女であった。様子を伺う吾平の耳には、二人の会話がはっきりと聞こえてきた。
------母様、文哉さんはどうなってしまうのでしょう…。
------言いましたでしょう佳織。高祖家の人間とは金輪際関わってはならないのですよ。そうでなくても…今日の御岬廻りの後から災いの相が…。
------まさか…文哉さんがこの島に災いを…鳩は帰ってきたっていうのは、ひょっとして…。
------…佳織や。災いというものは何人にも平等に降りかかるもの。いざ私達の身にそれが起こっても、決してたじろいだりする事がないように…。どんな時でも巫女としてのつとめを忘れてはなりません。
会話の始終、無意識に吾平はその少女の姿をじっと見てしまっていた。その少女の年齢にそぐわぬ神秘的な美貌によるものもあるのだが、何か神々しいものが彼の視線を引き止めていたのである。しかし、防弾ベストの背のポーチに入った無線機からの雑音が、吾平を引き戻した。そして引き続き無線から男性の声が入った。先刻集落の西側に向かった近城からのものである。
------おい、吾平。聞こえるか。
吾平は飛び上がりそうになり、壁の隙間から身体を遠ざけて、急いで無線機のマイクを胸から外し、応答した。
------はい、こちら吾平。
------吾平、近城だがそちらの散策はどうだ。
吾平は先刻の二人に、自分が居る事を悟られるのではないかとどぎまぎしたが、そんな様子もない事を確認すると、マイクに再び呼びかけた。
------全区間確認しました。こちら側にはいないようです。
------おかしいな…こちらも高祖家の母屋をチェックしたんだが、人っ子一人居ない。ターゲットは確かにこの付近に居るはずなんだが…。
------とりあえず、近城さんはそちらを引き続き探索してください。自分はもう一度集落の入り口付近をあたってみます。
------わかった。でも、見つけても一人で捕まえようとするな。必ず俺に連絡を入れるんだ。
------了解です。
吾平は通信を終えると、マイクを定位置に戻し再び機関拳銃を構え、立ち上がると先刻自分が辿った道を戻り始めた。下山した頃から感じていた奇妙な感覚が次第に強みを帯びてきたのが感じられた。
集落の入り口まであと30メートルといった所で、潜在潜行体勢でいた吾平は何かに足を取られ横転しそうになった。驚いた吾平は、目を見開きながら体勢を立て直し、機関拳銃のシュアファイアを点灯させ、地面に照らした。どうやら地面の泥濘に足を取られたようであった。しかし彼には合点いかなかった。ここに一時間前に到着した際には泥濘などなく、むしろ潮風の塩分で地面はコンクリートまでとは行かないが非常によい足場であったはずだったのだ。その間に雨が降ったなどという事は当然ない。ではどういうことだ。吾平は泥濘を光で辿っていった。すると、その先にはやや大きめな水溜りが、道の真ん中を占拠していた。吾平はふと違和感を感じ、水溜りに光を当てながら凝視した。水が赤いのである。赤い水が道を塞いでいたのだ。何とも奇妙な光景に吾平は目を奪われ、水溜りを見つめていたが、そのすぐ前方で水音が聞こえた。何かが赤い水の中を歩行しているようである。光に照らされていない更なる暗闇に向け、吾平は素早くシュアファイアを向けた。すると、暗闇の中に映ったのは赤い水に踝まで浸かった男の下半身であった。見ると、藍色の長ズボンを身につけ、腰からは皮製の警棒入れやホルスターがぶら下がっていた。どうやら制服の警察官である。しかし、どうにも動きが弱弱しく、まるで病人のようである。吾平は警戒を解くと、警官の上半身に照明を当て、呼びかけた。
------…おいあんた、こんなところでなにを…。
吾平がそう言いかけた瞬間、警察官の上半身が暗闇の中照らされた。吾平はつい声を漏らし、後ずさってしまった。その警察官が制服の顔に不相応なまるで異常者のような笑みを浮かべていたからである。それに加え、右腕は顔の位置まで挙げられており、その先の手に握られているものが拳銃である事を認識するのに、吾平は時間をさほど要さなかった。
------おいあんた、何の真似だ。止まりなさい。
吾平は声を強張らせ、機関拳銃を向け警告した。必然的にシュアファイアから放たれる光が警官の表情を映し出された。見れば見るほど異常な顔付きであった。快楽に溺れたような恍惚の笑みを浮かべ、さも麻薬中毒者のような病的な顔色をしていた。そして、そこから発せられる笑い声もまた異常じみており、吾平の神経を逆撫でした。ふと、吾平は破裂音のような大きな音とともに、右肩に衝撃が走ったのに気づいた。撃たれたのだ。銃弾は掠っただけなのだろうが、ノースリーブからのぞく右肩からは明らかに流血しており、次第に傷口が熱をおびてきた。
------了解…射殺します。
吾平は恐怖に顔を歪ませた。
殺される。
吾平は即座に判断すると、夢中で機関拳銃の引き金を引いた。
凄まじい銃声が静寂を切り裂き、彼の手にした機関拳銃は警察官に向けて十発ないし十五発の九ミリ弾を吐き出し、最初の数発は泥濘と赤い水溜りに命中し、水や泥の飛沫を辺りに勢いよく撒き散らしたが、大半は眼前の警察官の上半身を捉え、彼の身体は足元の赤い水と同色の鮮血を吹き上げて後方へ吹き飛ばされた。バランスを崩し、警察官であった身体は赤い水の中に沈められ、動きを失った。
周囲は静寂を取り戻したが、吾平は凄まじい動悸に襲われ、自分自身の心臓の鼓動と耳鳴りによって感覚を支配された。しかし、彼は機関拳銃の安全装置をかけると、自らの冷静さを取り戻すために軽く深呼吸をし、銃を吊っているベルトを肩の付け根にたくし上げた。九ミリ機関拳銃の銃口からは、いまだに硝煙が上がっていた。そして、ようやく彼が感覚を取り戻した頃に、再び通信が入った。
ノイズに紛れて近城の声が聞こえてきた。
------吾平、吾平。今銃声が聞こえたが、奴が居たのか。現在位置を報告してくれ。
------いえ…ただ警官が…、あの、その…撃ってきたから…だから、正当防衛射撃を…。
------言ってる事がわからん。とにかくそっちへ行くから…
通信に集中している吾平は、目を一瞬閉じた瞬間に軽い頭痛が走り、今までに感じた事のないような奇妙な感覚を覚えた。映像が頭の中に滑り込んできたのだ。それは目で見るそれとは全く異なり、脳の視覚野に直接情報が入ってくるようであった。画像の悪いテレビ画面のような、赤みを含んだ情景。これは、他人の視界なのではないかと、吾平は薄々感じていた。こことよく似た風景。蔵作りの建物が見える。この人物が手にしているものは自動小銃ではないであろうか。そして、その人物が顔の横で何かを弄っていると、吾平のベストの中、そして脳内の両方から声が響いてきた。何だこれは。吾平はあまりに理解し難い出来事に、目を再び開けた。
------吾平、どうした。返事をしろ。
もはや、何が起きているのか分からなくなっていた。ただただ、通信機の向こうから聞こえてくる近城の声を聞き流しながら、吾平はとぼとぼと集落の門の外へ歩み寄っていった。土手の上からは遠方に黒い日本海が見えていた。朦朧とした意識の中で、吾平はゆっくりと土手の上を歩き始めた。すると、かすかに海の向こうから何かが聞こえてきたのが分かった。最初吾平は、それは何かの駆動音のように聞こえたのだが、不思議な事にその音源が空を飛びまわっているかのように、突然自分の前方そして頭の上に飛来して、それがようやく何であるかを理解した。
サイレンであった。
空襲警報を思わせるサイレンのような音が、ドップラー効果を受け海の遥か向こう、そして自らの頭上との間を高速で往復し鳴り響いているのであった。それは無機質的な機械音のようでもあり、また冥府の死霊の不気味な叫び声のようでもあった。とてつもない不快感に、吾平は両耳を押さえ目を瞑ったが、また新たな視界が頭の中に流れ込んできた。最初はただ暗闇の中であったが、視界の持ち主が目を開けたのか星空が目の前に現れ、数回勢いよく焦点がぶれ、そして視界が平行に保たれた。どうやらこの人物は地面に倒れていたようである。そして先刻の吾平のように、激しい吐息を響かせながら、身体を起こし、赤い水溜りから身を起こし、集落の入り口に目を移し土手の上に立っている人物を凝視した。吾平はサイレンの響く中で、ふと目を開けるとその視界の位置を即座に把握し、勢いよく後ろに向き直った。焦点の合わない目のまま、手にした機関拳銃を暗闇に振り上げ、引き金を引こうとした。しかし、それより先に胸元に衝撃が走った。
一発。二発。
吾平は、平衡感覚を失い、土手の上で胸元から血を流しながら足を滑らせ、集落の眼下に見える雑木林に、弱弱しい声を上げながら転がり落ちていった。機関拳銃の銃声が数発虚しく空をきって。通信が入った。今度は違う人物のものである。その声はいつもながらに冷淡ではあったが、明らかにこの異常な事態を察してのものである。何時になく、人間味を帯びた柘植の声だ。
------近城、吾平。応答してくれ。何だか海の向こうからサイレンのような音が…。
遥か遠方、そして頭の中で響き渡る柘植の声を聞きながら、吾平の意識は遠ざかっていった。