水哭島近海上空
永瀬 凛 前日/23時57分25秒
半分の真紅の月がのぼる空、あと数分で今日と言う日付が終わりを告げようとしている。ベル427と呼ばれる、大きくもなく小さくもない機体が滑空していた。色は通常とは違い黒く染まっている。機内には内閣情報調査室の担当者永瀬凛を筆頭に3人の人間が搭乗している。
「ちょっと、何を読んでるの。任務中でしょ?」
「ただ待機しているのは暇だろうと思ってな。ん、読むか?このアトランティスと言う雑誌は、神々の正体が宇宙人だとか、もうじき第六天魔王が光臨して世界が破滅するとか、とても興味深い記事がな…」
知らないわよ。ヘッドセット越しから聞こえる男の話を遮り、読んでいる雑誌を取り上げる。そして腕時計に目をやると、針は23時58分を差していた。定時連絡を入れなければ、そう思い永瀬は、慣れた手つきで回線を開く。
「『baby』から『mother』へ、応答してください」
『こちら『mother』、現状の報告を』
「現在水哭島近海、あと数分で水哭島へ到着します」
無駄な事は一切喋らず、マニュアルどおりに話を進める。
『ご苦労、目標の目的がはっきりとしていない以上、くれぐれも慎重に頼む』
さっきのオペレーターでは無い声が答える。察するに、この初老の声の持ち主は、DI(内閣情報官:内調の最高責任者)のものと思われた。
「了解しました。ところで、そちらの方に新しい情報は入っているでしょうか?」
その返答は予想外のものだった。
『なんだと?…よく聞こえない、応答したまえ。電波妨害か?―――いえ、その可能性は極めて低いかと思われます。この回線の存在自体知りえる筈がありません』
「一体何『応答がありません―――一体…言う…事だ?……』
どうやら本部に、こちら側の声が入らなくなったようだ。本部から入る通信自体にもノイズが混じり始め、最終的には人の声はノイズにより完全に掻き消された。
「何が起こったと言うの?」
「それがわかれば苦労はしないよ。まあ状況が芳しく無い、と言うのは確実だろうけど」
「そのぐらい解っているわよ。確か本部は目標が消えた、と言っていたわね。内調の使っている衛星は、そう易々と目標を見失うような不良品じゃなかったと思うけど」
永瀬は、訝しげな表情を浮かべながら思案を巡らせるが、思い当たる節が無い為結論は出てこなかった。
「消失してしまったのなら、行っても意味が無い気がするけどな。何もせずにのこのこ帰ってきたら、本部では異常無しだったらまずいしな、最後に送られてきた情報を頼りに確認に行くか」
「そうね、それにもう目と鼻の先だし、あと1キロもないかしらね」
と言いながら永瀬がフロント部分に目をやると、殆どが漆黒の闇に塗りつぶされているが、辛うじて島が見える。今まで黒かった空が少しずつ赤色に染まっていくのだった。まるで、血溜まりの赤黒さが天を支配しているかのようだった。
「何あれ、気持ち悪い」
この世の物ではないような、不気味な光景を目の当たりにした永瀬はふと呟く。自分の中にえも言えぬような感情が支配しているのがわかる。これが俗に言う「嫌な予感」と言うものなのだろうか。それにしても、何もかもがおかしい気がする。何故―――
刹那、永瀬の思案を遮るかのようにサイレンが流れた。それも、島全体に鳴り響くかのような大音量で。緊急時の警報と言うのは、敢えて生理的に不快な音を出していると言う話を聞くが、この音は不快を通り越して嫌悪さえ感じさせるような音であった。
「…何だこの音は、警報音か?永瀬、おい大丈夫か?」
男が頭を押さえながら呟き、永瀬の方にふと目をやると、永瀬は顔を真っ青にして、いつもの気丈さをまったく感じさせないような弱々しい様子を見せていた。
「永瀬、しっかりしろ。くそっ、仕方ない、緊急事態ゆえ私の命令に従ってもらう。今すぐ帰還するぞ、早くしてく「あはははぁ!」
男の指示が終える前に、操縦席から気持ちの悪い笑い声が響く。
「何をふざけて…」
男はその先を言う事無く絶句する。操縦士の目は焦点が合ってなく、口元からはだらしなく涎が垂れていた。先まで何ともなかった操縦士が狂気に支配されているかのようだった。
そのまま操縦士は笑うのを止めずに操縦桿を動かし、ヘリを地面へと落とすつもりか、高度を下げはじめる。
どう見ても正気の沙汰ではないし、操縦士はその動作を止める素振りは見せない。このままでは確実に墜落し、爆発炎上してしまうだろう。対地接近警報のアラームが耳に障る、緊急時だと言うのは自分が一番解っているのだから。
男は焦った様子で、操縦士を退かそうとするが、余程強い力で操縦桿を握っているのだろう、操縦士は岩の様に重く感じられた。
男は2〜3秒程考え、自分なりの結論に辿り着き、片手は操縦桿を押さえ、急降下出来ないように止めてから、腰元より拳銃を抜き出す。そしてその銃口は操縦士の腕へ密着させ、撃鉄を起こす。
「いい加減にしろ、お前と一緒に心中する気は無い、腕を退けろ」
しかし操縦士は、狂った笑いを絶やす事無く頑なに操縦桿を握ったままだった。半ば呆れたような表情を見せ、男は引き金を引いた。
乾いた音が機内に響く、その音に反応するかのように永瀬の意識が若干戻る。
「銃声!?あなた、今何をしたの?状況は…くっ」
頭を押さえながら、永瀬が呻くように問う。
「急に操縦士が狂った。私たちごと心中するつもりだったらしいが、詳しい事は後だ」
操縦士は未だに笑い続け、操縦桿を握り締めてはいるが、撃たれた事により握力が低下している。だが、相手は狂人となってしまった男だ、何をしでかすか解らない。
今自分が置かれている状況を再確認し、最善の対処法を考えるのにさほど時間を要する事は無かった。
男は拳銃を納め、その空いた手を伸ばし、ヘリのハッチを開く。そして両手で操縦桿を握りしめ、操縦士の暴走を阻止し、そのままの体勢で出せるだけの声で永瀬に言う。
「私はこいつをどうにかして無事着陸を試みる。万が一の事があるかもしれんからな、君は先に島の方へ降下していてくれ」
「そ、そんな、あなた…死ぬ気?一緒に降下しましょう。残念だけど彼に構っている暇は無い筈よ?」
永瀬は頭を押さえながら低い声で返事をするが、男は永瀬の案を呑むつもりは毛頭も無いらしく、返事すらしない。だが、全てが上手く行けば男の言う事を従うに越した事は無いが、運が悪ければそのまま死んでしまう。それゆえに永瀬は納得が出来なかった。
「ちょっと、話を聞いてるの?ねえ」
男はったく…と言いながら一言だけ。
「パラシュートは…装着したか?」
「えぇ、それがどうしっっ!?」
男の足が永瀬の胴を捉え、そのまま機外へと突き落とす。普段なら抵抗する事が出来ただろうが、原因不明の体調不良で抵抗する力すら残っていなかった永瀬は、そのまま機外へ放り出される。衝撃で吹き飛ばされたヘッドセットを残して。
日ごろの訓練の賜物か、意識が朦朧としながらも永瀬は、パラシュートを開く事に成功する。これで墜落死する事はまずないだろう。彼の安否を心配はするものの、ひとまず自分は助かった事に対し、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだった。今までは極度の緊張状態で、意識はなんとか保ち続けていたが、安心により意識が遠ざかろうとしてきた。
視界は、次第に目の前のヘリが見えなくなって行く。聴覚も次第に衰え、未だに鳴り響くサイレンの音と、それを遮るかのように聞こえる爆発音、赤黒い闇にかがり火のように燃え盛るヘリをぼんやりと見つめながら、意識が遠ざかっていった。