水鵺の顎/中の戸
上山 沙希 前日/23時37分45秒
波の砕ける音が地の底から湧き上がるように響く。崖下の岩礁を波が洗っているのだろう。「だろう」と言うのは、今、上山沙希とその娘、朋美のいる道からは身を乗り出すようにしなければその様子を見ることが出来ないからだ。
潮風が灌木の木立をざわめかせている。島の東側に続く断崖は「水鵺の顎(みずぬえのあぎと)」と呼ばれており、船の着ける場所もなく、起伏も多くて岩も多いことから、土地としてあまり利用価値がなく、わずかな畑のための農道や、所々に祀られた小さな神社や賽の神の祠への参詣道として使われるほかは、特に通う者も無いうら寂しい場所だ。昔からこの海岸沿いの小道は神隠しなど妙な噂の絶えない場所であった。地名の由来も、青い光に包まれた「水鵺」という怪物が人をさらった、という故事から来ているらしい。なればこそ、夜にこの道を通ろうと思うものなど皆無である。沙希のように断崖から身投げをしようという者を除けば。
道端に道祖神の祠があり、その側の木枠の灯篭に盆の迎え火が焚かれている。潮風が強くなるとその灯が大きくなり、素朴な石造りの道祖神の表情を照らす。昼見れば穏やかな表情の道祖神なのだろうが、揺らめく迎え火に照らされた男女一組のそれは、なんとも粘着質な、嫌らしい笑みを浮かべているように見える。それだけでなく、なにか空気全体が邪悪な気配に満ち満ちていた。そう、今宵は忌まわしい「御岬廻り」の夜。島にいるものは決して外を出歩くことは許されない夜なのだ。島の者はこの禁忌を犯せば気が触れると恐れる。だが、もしそうなればそうなったで構わない、と沙希は思った。
一人娘を連れて死に場所を探す沙希の足取りは重い。けして癒えることの無い疲れと孤独感が彼女を支配していた。実を言えば、彼女自身は娘を道連れにするのは辞めようと思い直していた。雨女切集落の彼女の実家で年老いた母と戯れる娘を見るうち、残された娘が不憫だから一緒に死ぬ、という自分の考えは独り善がりである事に気付いたのだ。
( 私がいなくとも、この子は立派に育つのに違いない・・・)
そう考えた彼女は母と娘が寝静まった頃を見計らって寝床を抜け出したのだったが、玄関では驚いたことに朋美が待ち受けていた。直視するのが眩しい様な、決意に満ちたまなざしで。
今も朋美は、死に場所を探す母の手をしっかりと握り締めている。沙希は握り返す娘の手の強さを、以前もどこかで感じたことがあるような気がして、いつの間にか記憶を辿っていた。
1度目は・・・そう、沙希が車に危うく轢かれそうになったときだった。朋美が通う養護学校への通学路。いつもと違う横断歩道から渡ると言って聞かない朋美にしかたなく付き合い、そちらへ向かっていたとき、大きな音がして振り向くと、いつも使う横断歩道の側の信号の支柱に、車が突っ込んで大破していた。もし、いつも使う横断歩道でいつものように信号待ちをしていたら、あの事故に巻き込まれていたことだろう。あのとき、別の横断歩道へと引っ張る知美の力強い手・・・。
だが、彼女に記憶を辿らせたのは別の手の温もりの思い出のように感じられた。疲れ切った彼女の心の奥底から蘇って来たのは、今は亡き夫の手の温もり。あれは10年ほど前の初夏のある晴れた日だった。海の水面が日差しを受けてきらきらと輝いていたのを憶えている。ようやくまとまったお金が出来て島を出る日、夫の友人が本土まで漁船で送ってくれることになり、その船に乗り込むとき、幼い朋美を抱えた沙希に夫が手を差し伸べ、船の上へと優しく、しかし力強く導いてくれた・・・。
不意に沙希は、夫が自分の手を握っているように感じ、隣りの朋美を見た。握り返す手が、夫のものと重なって見える。いや、朋美の面影も、成長に従って夫に益々似てきていた。いつの間にこんなにも夫に似るようになったのだろうか。沙希の目元に、ふいに熱いものが込み上げてきた。
「あなた・・・!」
沙希は朋美を抱き寄せていた。
「あなた、もうすぐ朋美とあなたの元へ逝きますから。そうしたら、また3人で暮らしましょう・・・」
朋美を抱いたまま、沙希はまるで夫に語るようにそう言った後、思わず嗚咽した。
「ん゛ーん゛、ままー」
朋美が抗議の声を上げる。それは、朋美を抱きしめる沙希の力が強すぎることへの抗議ではないようだった。
「ん゛ーん゛、ままー、ん゛ーん゛」
朋美が力強く首を横に振る。それはまるで、目の前に夫が立ち現れて首を横に振っているようだった。脳裏に遺書の一文が蘇る。
『朋美を頼む』−−−
「嫌。嫌よ、あなた・・・っ!あなただけ勝手に先に楽になって。あたしは疲れたの。もうそっちに逝きたいのよ、あなたの側に・・・」
涙で滲む沙希の視界に、再び首を横に振る朋美の姿が映る。
「ままー、ん゛ーん゛、だーめ」
「・・・ごめん、ごめんね、朋美。でも、ここよりきっと向こうのほうが楽しいわ。だって、パパが待ってるんだから。そうしたら、パパと一緒にお絵かきできるじゃない・・・?」
この辺りでは珍しく、遠くからヘリコプターの飛ぶパタパタという乾いた音がかすかにしていた。沙希は立ち上がると、持っていたライトで辺りを照らした。断崖は十分な高さがあるようだった。崖に沿って設けられた金属製の柵は、白い塗料の下から赤錆が浮かび上がり、赤茶色の雨垂れの後が流したように付いていた。中には、もう完全に柵の横木が失われているところさえある。
沙希はその柵が落ちて失われたところから崖下を臨んだ。波が岩肌を洗う音が響くが、その様子は手持ちのライトの弱い光では見ることが出来なかった。まるでどこまでも落ちていく巨大な穴の様だ。このほうが好都合だ、と沙希は思った。もし下に、波に洗われて黒々と屹立する岩礁でも目に入ったら、覚悟が鈍ってしまうかもしれない。
「さぁ、朋美。こっちへおいで」
彼女は、スカートのポケットから遺書を取り出して、風に飛ばされないよう手ごろな大きさの石を重しにしてそれを置くと、少し離れた場所で不安そうにしている朋美を呼んだ。朋美は首を横に振っていやいやをした。改めて考えてみると、沙希には自分に一人娘を道連れに心中する覚悟など無いように思われた。
(やはり朋美を連れて来るべきではなかった・・・)
沙希がそう思った、そのときだった。
ウゥオオオォォォー。
突如としてけたたましいサイレンが辺りにこだました。
「何?何なの!?この音は・・・?」
この辺りには行政が備え付けた防災無線のスピーカーなど無いはずなのに、妙に音源が近くに感じられる。と同時に、果てしなく遠いところから発せられているようにも感じる。なにかひどく生々しい、生理的に嫌悪感を催すような音だった。2人とも思わず耳を塞ぐ。
その直後、今度は地面が揺れだした。かなりの振動だ。
「じ、地震?」
地鳴りとともに激しい地面の振動が母子2人を襲う。沙希が立っていられずにしゃがみこんだその時、彼女のいる地面が海に向かって崩落を始めた。始めはゆっくりと、しかし、地面の崩落は沙希に逃げる間も与えなかった。
「朋美っ!」
「ままー!」
地面の亀裂が文字通り母子の間を引き裂いてゆく。ドドド、という轟音が辺りにこだまし、鳴り響くサイレンとともにまるで絶望のアンサンブルを奏でているようだ。沙希は土砂と悲鳴諸共、闇の中に飲まれていった。
「ままー!ままー!」
朋美は母を飲み込んだ闇に向かって涙ながらにそう叫んでいたが、いまだ鳴り止まぬサイレンを聞きながら、やがて意識が遠のいていった。
雨が降り始めた。血の色をした雨が。