豊津港/浜辺の廃墟
天野 悠 初日/00時35分43秒
いつの時代にも冒険野郎と呼ばれる人々は居るものである。彼等は様々な時代におき自らの溢れんばかりの好奇心に突
き動かされ、その興味の対象にアトラクトされていくのだ。その対象は個人によって非常にまちまちであ
るが、この少年は少々奇特なものに関心を寄せているように思える。
漣(さざなみ)に目を覚ました少年が自分の居場所を把握するには少々時間がかかってしまったようだ。
そもそも集団行動を好まない性質の彼は、どちらかというと読書にその時間を費やす事の方が多かった。根源的には、その漂泊を好む性格が何故彼がこの場所にいるかを説明するには十二分に事足りるものであったのかも知れない。岐阜のとある高等学校に通っていた彼は、とある昼休み、古びた木造旧校舎の二階にある図書室で、フォークロアに関する書籍を見つけ、奇妙奇天烈な伝承の数々に心奪われていた。
その書籍の中の「不可思議昭和見聞録」と記された一章には、彼が現在目を覚ました場所についての、狂信的な慣わしや民俗学的な考察が著されており、それは十七歳になる天野の若い興味をひくにはそう時間はかからなかった。しかし、現在眼前で起こっている状況を把握するにはそれよりも幾分時間がかかってしまった。浜辺故の潮風とまたそれ自体の年季によって、老朽化した廃屋の中で体を起こし、最早ガラスの無い窓枠から彼はゆっくりと顔を覘かせた。闇の中、遠方から相変わらず漣の打ち寄せる音が聞こえてくるばかりであったが、次第に闇夜の中で彼の目はその場に適応した視力を手に入れた。
------まったくふざけすぎてるね。本当にふざけすぎてる状況だね…。
天野が誰にとは言わないが、無愛想な抑揚のない発音でそう呟いた最中視線の先にあった世界は、実に驚嘆を誘うものであった。以前これと似たような情景を見たことがあった。彼の地元の土壌で産業廃棄物の影響で酸化鉄が土面に染み出し、山に面した丘陵地全域が赤褐色化し、夜には街灯によってそれが不気味に映し出されており、その情景が彼の瞼の裏に淡々と思い出された。そしてそれが、興味本位で遥々足を運んだ先であるこの辺境で、宿の消灯時間を過ぎた後に抜け出し、夜な夜な物見遊山に立ち寄った海岸沿いの、元は造船場の管制室であったのであろう廃屋から目の当たりにされたのだ。ある種のデジャヴーだろうか。持参した中型の青いアウトドア用リュックサックを引き摺りながら、天野は軽く溜息をついた。
あやうい足場を頼りに建物から這い出した天野は、廃屋の基盤から足を踏み出した。砂浜独特の感触が足にまとわりついたが、彼は何とか足をとられることもなく、視界もほとんどない夜の砂浜を歩くことができた。彼はリュックサックの中からマグネシウム合金製のハロゲン懐中電灯をとりだし、スイッチを入れた。その光の中でもいまだに視界は暗闇が大半を支配していたが、少なくとも怪我をせずに歩くには事足りたといえよう。天野は懐中電灯の光を何気なく虫の息のような波が這う砂浜を照らした。見れば見るほどそれは不気味極まりない光景であった。赤い水で満たされた海からの波打ち際の砂地は、赤い水に浸食され全て鮮やかな赤に染まっていた。忌々しいものから目をそらすかのように、天野は目を軽く細めた。
瞬間、彼の頭の中に何かが入り込んできた。
それが何者かの視界であることは一目で理解できた。何かの乗り物の後部座席だかキャビンだかに乗っている。恐らくはヘリコプターであろうが、前方の操縦席にいるパイロットらしき人物が痙攣を起こしたかのような動きを見せ、視界の持ち主に羽交い絞めにされているようである。横から何か女の叫び声が聞こえてきた。非常に鮮明な感覚で、実際に左側の鼓膜に響いてくるような感じである。ふと視界の人物が右腕を自らの腰辺りにやり、再び前方に出した。手には何か黒光りする物体が握られており、それが拳銃であると気づいた頃に、くぐもった炸裂音が天野の耳をつんざいた。天野は軽く悲鳴を上げてしまい、驚きのあまり目を見開いてしまった。しかし、再び目を開いた天野には、ヘリコプターどころかローターの回転音さえも聞こえなかった。今の彼の視界の中には、先刻の不気味なほど静かで暗闇の広がる赤い海の浜辺にさざ波が打ち寄せているだけであった。
------幻覚…ではないね、すると事によると…何だ、わからん。
ふに落ちない顔をした天野は、再び目を瞑ると、またもや何者かの視線が入り込んできた。
またもや何者かの視線であったが、今度は市街地らしき場所の路地裏を駆け回っている。若い男性のようだ、この島の住人だろう。息を切らしながらしきりに助けを求めながら何かから逃げているようであった。すると、また別の視界が入り込んできた。天野はこの自分に起きている現象を理解しているわけではないが、どうやってこれらの映像を見ることが出来るのかが分かってきた。非常に漠然としているのだが、頭の「前」の方で考えると、はるか前方にいる人物の視線を盗み見ることができ、そしてそれはあらゆる方向でさも頭の中にあるレバーをその方向へ倒すような感覚で行うことが出来ることが体感できたのだ。そして集中すればするほどより遠方に存在する者の視界を共有することが可能であることも分かった。
------…まぁ、とにかく…わからん…とりあえず、見ておいてやるか。
その人物は白いYシャツを着込んだ男性を追い掛け回していた。妙に息遣いが荒く、まるで病人のようである。その視界の中でも先刻の助けを求める悲鳴が響いていた。そしてうすうす天野が、この視界の人物が先ほどの視界の男性を追い回している事に気がついたときには、視界の中の男性が何かに蹴躓いたのか、地面に横倒しになり、腰が抜けた状態でなおも視界の人物から逃げ惑おうとしている。やがて、男性の表情が確認できるほどの距離まで近づいた。年齢は30ぐらいだろうか、非常に整った顔立ちの男性の表情は醜く恐怖に歪んでおり、その顔が次第に近づいてくる。そして、視界の人物が右腕を前方に突き出した。手には、農家の使う鎌が握られていた。そして、間髪居れずにそれが男性の顔面に振り下ろされた。と同時に男性の悲鳴が止まった。
一発
二発
狂ったように鎌が男性の顔面に振り下ろされ、鮮血や組織がそこいらに飛び散った。そして、男性の顔面を原型をとどめないほどに切りつけた後に、彼が動かなくなったのが視界の中で確認できた。天野はただただ立ちすくんでおり、視界の中…とは言っても彼自身のものではないが、そこで展開されている惨劇が現実のものとして認識できなかった。そして、刹那に神経を逆なでするような人間離れした笑い声が視界の中で響いた。獲物を捕らえた視界の人物の歓喜の声である。
天野は目を開き、しばらくはるか遠方の闇の中の赤い海を見つめていた。しかし闇の中、漣の打ち寄せる音に紛れてその恐ろしい笑い声が聞こえてきたような気がした瞬間、彼は絶叫しながら夜の浜辺を駆け出していた。