鷹泊山/白拍子谷林道
左京 直之        初日/02時07分43秒





 「うう…頭が割れるように痛い…ここは一体どこなんだ?」

 男は気が付くと、足場の悪い林道を下っていた。舗装で敷き詰めてある石に足をとられ、頭痛でふらつく頭で歩くのは困難この上ない。事実、男はどこかで酷い転び方をしたらしく、背広のズボンの左足が破けて膝から血が滲み出しており、他にも何箇所も打ち身や擦り傷を作っていた。身体のあちこちが悲鳴を上げている。その上、頭部左側に縫合が必要なほど深い裂傷が出来ていて、そこから滲出した血がグレーのシャツの肩から背中にかけてを赤黒く染めていた。しかし不思議なことに、この傷はそれほど痛まず、見た目ほど気にならない。

 「俺の名前は左京。左京直之。そしてここは…?」

 男はビロードの如く纏わり付くような闇に包まれた杉の木立を見回した。彼は記憶を失っていた。記憶を辿ろうとすると、こめかみの辺りが酷く痛む。左京を悩ませるのはそれだけではない。頭痛に耐えかねてその場に立ち止まり、目を瞑ると、様々に陰惨な光景が脳裏に展開されるのだ。みな、誰かが見ている映像のようだが、狂ったように同じことを繰り返したり、武器を持って誰かを追いかけ回したりしていた。人に馬乗りになった女が、血の涙を流しながら、視界の持ち主の腹部に何度も包丁を突き立てているシーンさえあった。まるで、出来の悪いホラー映画を、映りの悪いテレビで無理やり見させられているような不快感。左京は頭痛と陰惨な映像の奔流のせいで、何度も嘔吐した。もう胃の中には何も無い。

 「俺は、俺は一体どうなっちまったんだ…」

 左京は心の(たが)が外れかかっているのを感じていた。この箍が弾け飛べば、発狂して楽になれるだろう。彼はそう思いつつも、心の自爆を必死に抑えていた。何がそうさせるかは分からない。記憶の奥底にある動機を下地とした義務感がそうさせる、というべきか。四つん這いになって胃の中の物を全て吐き出してしまうと、次第に落ち着いてきた。彼は、唾液がまだ糸を引いている口元を拭うと、側にあった手頃な切り株の上に腰を落ち着けた。

 暖かな雨が枝葉の間を縫って落ちてくる。雨に打たれて、羊歯の茂みがわずかに震えていた。300m程先だろうか、木々の間から町の明かりらしきものがわずかに覗いている。それは電灯の明かりというよりも、小さい火を焚いている様な揺らめきのある明かりだ。
 左京はふと、何か自分の身分を証明するものがあるかもしれないと思い付き、服のポケットを漁ってみた。出てきたのはタバコと、その何本か吸って出来たスペース突っ込まれた100円ライターのみ。彼は苦笑しつつも、タバコに火を付けて煙を大きく吸い込み、溜息とともに吐き出す。うまい。傷の痛みも和らぐ感じがした。自分が生きていることを実感する。
 時間が気になり、ライターの火をかざして腕時計の文字盤を見たとき、彼は自分の目を疑った。文字盤のガラスに付いた雨滴が赤い色をしていたのだ。慌てて今度は口にくわえていたタバコを見る。すると、タバコの巻紙にも赤い滴が1つ2つ滲みを作っている。

 「なんだこれは…?」

 左京は思わず口走っていた。赤い雨…。原爆が投下された後、黒い雨が降ったという話は聞いたことがあるが、赤い色の付いた雨というのは聞いたことが無い。不吉な予感が胸にわだかまる。いや、それよりも、このままこの雨を浴びていても安全なのだろうか?この異常現象は核兵器か、生物・化学兵器、いや、あるいはもっと悪い何かが使用されたことを示しているのではないのか…?

 左京の脳裡にこの考えが浮かぶと、彼を居ても立ってもいられない気分が襲ってきた。これだけこの雨を浴びてしまったのでは手遅れかもしれないが、それでも一刻も早く雨がしのげる所に行きたい。彼は立ち上がると、またしても不思議なことに気付いた。先程までは痛みで引きずるようにしていた左足が、今では全く痛まない。それどころか、体中の痛みが嘘の様に引いているではないか。まったく、自分でも飽きれるほどの回復だ。むしろ異常と言っていい。しかし、とにかく今はこの回復を素直に喜ぶべきだろう。彼は町明かりに向かって再び歩き始めた。

 林道の入り口は丈の高いススキやカヤが茂り放題で、思わぬ苦戦を強いられたが、どうにか町の外れに到達した。手の甲や頬にできた、葉で切った傷がチリチリと痛む。時間はもう午前2時半を回ったところだ。瓦葺きの平屋建ての家々が、入り組んだ漁師町特有の街並みを形成している。所々コンクリート製の階段が設けられた狭い坂道が、不規則なカーブを描きながら海へと向かって下っているようだった。海から吹き上げてくる風がほのかに生臭い。潮の香りと、他にも魚の血の匂いのような臭みが左京の鼻腔を突く。そこかしこがぼんやりと明るいのは、家々の軒先に灯篭が焚かれている為だった。どうも、盆の迎え火ということのようだ。 
 赤い雨がしとしとと降り注ぎ、軒先からの雨垂れが側溝に赤い小川を作り出している。赤い小川…見ていてあまり気持ちのいい光景ではない。左京はブロック塀の続く狭い坂道の、一番手前の民家の軒下に駆け込んだ。ちょうどそこには薄汚れた手拭いが針金ハンガーにかけて干してあったので、有難く拝借し、濡れた身体を拭った。手拭いは赤い色をした水と、彼の体から出た血ですぐに赤黒く染まってゆく。

 ふと、何か物音が聞こえたような気がして、左京は今来た道のほうを振り返った。今まで雨をしのぐ事で一杯だった思考が、何かの気配を察知して警報を発している。まだ夜が明けきらないにもかかわらず、この町には人の気配が感じられた。灯篭の明かりが揺らめいて、出来た影がまるで巨大な化け物のように蠢く。空気には、何かピリピリとした、不穏な気配が漂っていた。動物ならば本能的に感じるような、はっきりとした危険の匂い…。

 (気のせいだ、気のせい。それよりも、怪我の手当てと、ここが一体どこなのか、情報が欲しい)

 そう思った彼は、軒下を借りている民家の雨戸を何度か叩いた。

 「すいません」

 その反応はすぐにあった。雨戸が吹っ飛ぶと言う過剰な形で。咄嗟に身をかがめて、飛んできた雨戸から身体をかばった左京が振り返ると、そこには家人のものらしい姿があった。一瞬、早朝の時間を省みない訪問が家人を怒らせたのではないかという、とんちんかんな考えが脳裡に浮かぶ。

 「あ、あのう…?」

 死者を思わせる不健康な青い顔に流れる血の涙。右手に血の滴る包丁。左京は目の前にいる女の顔に見覚えがあった。発狂寸前に朦朧とした意識の中で見た、他人の腹に馬乗りになって狂ったように包丁を突き立てていた、あの女だったのだ。
 次の瞬間、女が躍りかかって左京に包丁を突き立ててきた。彼は咄嗟に包丁を持った右手を受け止め、渾身の力で女を突き飛ばす。女は積み上げてあったビールケースや木箱にもんどりうって突っ込んだ。早朝の漁師町に、物が砕ける大きな音が響く。左京は素早く辺りを見回すと、軒下にぶら下がっていた木製の丈夫そうなハンガーを手に取って身構えた。恐怖と興奮で足が戦慄(わなな)いている。崩れた木箱の山の中から、女がゆらりと立ち上がった。女は血の涙が筋を作っている顔に笑みさえ浮かべている。再び包丁を手に向かってくる女。だが、攻撃は単調だ。左京は最初の一撃をかわすと、逆にハンガーで女の顔を殴りつけた。ハンガーによる打撃が、まず女の左頬、次に右顎、続いて左顎の骨を砕くのが感触で分かる。特に最後の一撃は溜めてから放ったので、強烈だった。女はその勢いで吹き飛んだが、ハンガーもまたばらばらに砕けてしまった。
 女に再び立ち上がる気配は無い。普通ならば、あれだけのダメージを受けたら、完全に伸びてしまって暫くは動けないだろう。左京はその場にへなへなと力なく座り込んでしまった。

 「なんだ…なんなんだ、これは…?」

 荒い息を整えながらも、動揺は抑えきれない。様々な考えが一遍に脳に殺到し、思考を整理することが出来ない。

 (とにかく落ち着け。落ち着くんだ)

 目を瞑り、意識を呼吸を整えることにのみ、集中しようと努力する。しかしその努力は、映像の流入で妨げられた。コンクリートの三和土(たたき)に力なく座り込む左京を、家の縁側から見た映像だ。混乱した左京が雨戸の吹き飛んでしまった家の縁側を見やると、寝間着を着た男が薄ら笑いを浮かべて立っていた。だが、その男の寝間着はズタズタに裂けて血で真っ赤に染まり、腹部からははらわたが垂れ下がって、だらしなくプラプラと揺れているではないか。
 驚愕の表情でその男を見つめる左京の視界の隅に、もう一つ動くものがあった。先程包丁を持って彼を襲った女が、再び立ち上がるところだった。まさか…。座ったまま後じさる左京。しかし、そんな彼に今度は聴覚が警告する。背後から、何者かの荒い呼吸音が聞こえてきたのだ。振り返ると、バールを持った男が血の涙を流し、嫌らしい笑みを浮かべてそこにいた。

 「イヒ、ヒヒヒ、ヒャハハハハ…」

 男が笑いながら持っていたバールを振りかぶる。左京の網膜には、その姿がことさらゆっくりと、スローモーションの様に映る。

 (何がそんなに面白いんだ)

 次の瞬間には彼の頭にバールが穴を穿とうというとき、左京は何故か男の笑い声が耳に付いていらいらした。

 (こんな所で、わけもわからず俺は死ぬのか…)

 だが、倒れたのはその男のほうだった。狭い通路に弾けるような音が響き渡った。見ると、二人の迷彩服姿の男が少し離れた場所で拳銃を構えていた。二人のうち、より若い男が持った拳銃の先からは、うっすらと煙が立ち昇っている。その男が今度は素早い動作で左京の側に駆け寄り、「立て、行くぞ」と言うなり、緩んだ左京のネクタイを引っつかんで彼を引き起こしたかと思うと、次の瞬間には彼のシャツの襟元を掴んでそのまま脱兎の如く走り出した。左京の脚は、脳が状況を把握するよりも早く、男と一緒に駆け出していた。