高祖家/八重事代神社拝殿
高祖 文哉         初日/03時48分38秒





高祖文哉が目を覚まし、辺りを見回してみるがまだ目が闇に慣れていないために、おぼろげな輪郭がなんとかわかる程度しか見えない。取り敢えずこのままの状態でいても何も始まらない、そう思い文哉は立ち上がろうとする。だが、手足が言う事を利かない。
両手足を広げることもままならず、よじるように動かすと、手首にひやりとした金属的な冷たさを感じる。
まだ完全に覚醒していない所為か、少し思案をしてようやく、自分が捕縛されていることに気付いた。両方の手足に手錠をかけ、体の自由を奪っている。
―――ここは?昼間に彼らを逃がして、その後親父たちに捕まってからの記憶が無いな…なんとか脱出の手段を考えないと。
手をよじってみるが、鉄製のそれが簡単に外れる筈は無い。周りを見渡し、何か無いか見てみる。外から光が少し射してきて、完全な闇でなかったゆえに、今の暗さに目が慣れてきた。その事によって良好とは言い難いが、大分を視認出来るほどになっている。文哉の前には頭には、頭巾を被った即身仏のように生々しい躯の様な像が安置してある。
―――これは、あの時の…
文哉は常人より多少記憶力が良いので、物心がつく前の事でも大方思い出せる自信もある。

高祖家は、一般の家屋と違い神社と一体型の屋敷で、その中に昔から、父に絶対に入る事を禁じられていた部屋があった。なぜ入ってはいけないのかさえ知らされず、幼い文哉は好奇心に動かされ一度隠れて入った事があったのだが、すぐに見つかってしまい散々叱責されたのだった。
そこで文哉が目にしたのは、今ぼんやりと見る事ができるそれと同じものだった事を思い出すが、今は物思いに耽っている時間は無い。
他に何か無いか、体を動かしながら見回すと、丁度像の反対方に男が倒れている。文哉は声をかけようとするが、寸前に思いとどまる。目の前に倒れている男は、宗蔵の取り巻きのうちの一人だということに気付く。恐らく文哉を見張っていたのだろう。

文哉は身の危険を今になって思い知り、早急にこの状況を打開する方法を考えていると、ある事を思い出した。少しずつ脳が覚醒状態に近づいている証拠だ。
監禁される事は想定していたので、脱出の手段を何通りか考えていた。無計画にあんな無茶をするほど無謀ではないが、さすがに手錠を解く手段までは考えていなかった為、文哉は軽く焦りを覚える。
周りは暗く、見えるものは輪郭と外から射す光の作り出す仄かな影ぐらいしか見えない。目が暗闇に慣れたとは言え、闇の中の物を完全に視認する事は出来ないし、どちらにせよ男が目覚めるのは時間の問題だ。
文哉はふと男の方を見ると、男の胸元が外の光に反射して光っている。さっきは驚いて、ゆっくり見る余裕がなかった為に見落としていたのだろう。
その胸元の物は何なのかというのは、距離の問題ではっきりと断定出来ないが、今自分が置かれている状況を考えると、それが手足を拘束する鍵の可能性がある。
そう思い文哉は音を立てないよう慎重に、男の元へ這いずるように近づいてみることにした。

二〜三メートルほど進み、一息ついていると突然激しい頭痛に襲われた。目頭に深くしわを寄せ、小さく呻き声をこぼし、その声で男が目を覚ましたかもしれないと、男の方へ目をやるが、何故かテレビの設定をしていないチャンネルを見ているかのような光景と、耳障りな音が文哉の視覚と聴覚を支配する。
砂嵐とノイズの音と共に、何かが見える。その部屋の入り口付近に倒れている男。そして、そのすぐ近くで芋虫のように這いつくばっている少年―――そう、己の姿が視界に入ったのだった。
―――これは…誰かの目?っ痛
何が起きているのかを考ようとした刹那、右の掌に神経を直接弄られるかの感覚。それは次第に痛みへと変化し、左手に何かが滴り落ちる。
それと同時に砂嵐もノイズも消え去り、右手の痛みだけが残った。床面のささくれた木で手を切ってしまったようだ。未だに血が床に滴り落ちている事から、少し傷口が深いと思われる。
ふと、思い出したかのように男の方を見るが、幸いにもまだ目を覚ましていない様子だった。
文哉は更に男との距離を縮め、なんとか無事に男のすぐ隣に着いた。右手の痛みに耐えながら、両手を男の胸元へ持っていき、身体に触れないようにゆっくりと指を下ろす。反射した光が少しだけ手元を照らしたので、そんなに苦労せずに取り出す事に成功し、取ったそれを見つめ、それが鍵だったのを確認する。

文哉はいそいそと錠を外そうとするが、直前で思い止まる。
―――拘束を解いて逃げ、それから何をすると言うのか。あの馬鹿げてる儀式を止めさせた以上、尋常ではない怒りを自分に持っている筈。ここにいたら何をされるかわからないし、最悪殺されるかも知れない。もう、後には引けないんだ。

覚悟を決め、まず右手の方の鍵穴に鍵を差す。鍵を軽くひねるとシリンダーが下へおり簡単に外れた。
同じような要領で残りの左手と両足の錠を外し、完全に自由になった。文哉は急いで脱出しようと出入り口に足を進めようとするが、その刹那、先程と同じような頭痛に見舞われ、又も同じようなノイズと砂嵐を感じる。
今度は自分の姿こそは見えなかったが、その視界は襖を開きどこかに向かって歩いてくる。視界の主が歩を進めるたびに少しずつその視界は鮮明になっていき、それは文哉の知っているものばかりを映し出しだす。
この幻覚と思しきものを振り払い、破れた障子の隙間から外を覗いて見ると、誰かが歩いてくる音が聞こえる。
このままでは鉢合わせしてしまい、事態が悪化してしまうかもしれない。焦りながらも文哉は思案し、急いですぐに外へ出れば遭遇しないかもしれないと思うや否や、それを実行に移した。
多少音が立つが、今はそれを気にしている暇は無いし、一刻も早くここを脱出しなければいけない。
仮に男が目を覚ましても、何が起きたのかを瞬時に把握することは出来ないだろうし、どちらにせよ男は向こうから来る人間と鉢合わせするだろうから、時間は稼げる筈。
ゆっくりと襖を開け誰もいない事を確認して、そこから飛び出した。右手がまだ痛むが、今はそれどころではない。
少し遠くから、男の声がした。多分こちらの立てた物音に気付いたからだろうが、それを気にも留めずに駆け出す。自宅付近は居住地がなく、今いた本殿の最深部ぐらいしか無い。そのため身を隠す遮蔽物が存在しないゆえに、止まったりしていると追っ手に気付かれるかもしれないので、脇目を振らず一心不乱に走り続ける。

どのぐらい走ったか、一分程度だとも思えば、十分も走り続けたようにも思える。
―――これぐらい走れば大丈夫かな。あいつらが来ても、走ってくる音とかでそういうのはわかると思うし。それにしても、これからはどうすれば良いのだろうか…
息を整えるように深呼吸をしながら文哉はこれからの事を考える。しかし冷静さを欠いている今の状態では、妙案が思いつく筈も無いのだった。
それでも往生際の悪いように思案をめぐらしていると、三度目の頭痛が来た。今度は先程文哉が居たところで、まだ気絶している男に話しかけている様子だった。多分二度目の視界の主だろう。

「おい、大丈夫か」
視界の主が男を揺すりながら話しかけると、しばらくして気だるそうに男が目を覚ます。
「うぅ…どうしてお前がここにいるんだ?」
「それどころじゃない…ん?お前、贄はどうした。あいつが居ねぇと儀式はまた失敗してしまうぞ!」
「何を言ってるんだ?」
視界の主が非常に焦った様子で男に問いかけるが、男はまだ少し呆けている様子で、視界の主が望む答えを返して来ない。
「馬鹿野郎、このままじゃ俺たちが…ひっ」
視界の主が男に怒鳴っていると、奥の方から「何か」が動く物音が聞こえ、それに反応するかのように軽く悲鳴をあげる。

その光景を見ながら文哉は、とてつもない嫌な予感に苛まれて強制的にこの幻視を遮断する。
―――よくわからないけど、このまま見ていたら何か良くないことが起きていた気がする。それにしても、あの物音…最初に「見えた」時も「見える筈の無い場所から見えた」けど、あれはいったい……

ああああああぁあああぁぁぁぁああぁあああぁあああああああぁぁぁあぁ

文哉が必死に思考を練っていると、突如自分が目覚めた場所の方から、今まで聴いたことも無いような恐ろしい悲鳴が聞こえてきた。
先の幻視から、その声の主はあそこに居た人間のものだろうと言うのは想像がつく。文哉は少しでも自分が居たところから離れたくなり、全速力で走り出した。
横隔膜が痛み、右手の痛みが増して、喉がひゅーひゅーと音を出すが、そんな事さえ気にする事すら忘れ、文哉は自分の体力が続く限り走り続けた。