鷹泊山/巌戸要塞付近/佐伯家
永瀬 凛        初日/05時17分52秒





------お嬢さん、お嬢さん。起きなされ。

それは永瀬には妙に気の障る声である。ほっといてよ。
勤務の合間に離婚調停の事で弁護士と話をしているうちに、怒りが抑えられなくなり、オフィスの中で立腹し、癇癪を起こすことは日常茶飯であり、その度にその山田というネームプレートを下げた三十代半ばの弁護士にこう宥められるのだ。「お嬢さん、落ち着いて」と。もうお嬢さんと呼ばれる年齢ではないだろうが、恐らく彼が女性を気遣う為の配慮であろう。しかし実際のところ、既に自分がそんな年齢でないのに「お嬢さん」と呼ばれるのが無性に腹立たしかったのだ。永瀬は半ば怒りに身を任せ、上半身を起こした。しかし、そこがオフィスで無い事を悟ると、途端に女性的なおとなしい表情に戻ってしまった。

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私は・・・。

彼女の入っている布団の右手に、膝をつきながら心配そうに顔を覗き込んでいる老父が目に入った。歳のころ八十といったところか、田舎の老人は気丈さか若く見える故に、それより上かもしれない。まだ意識が朦朧としているのに関わらず、老父は語りかけてきた。

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昨晩、裏の丘にお前さんたちの乗ったヘリが墜落してな、何事かと思って外に出てみたら林の中からお嬢さんがふらふらになりながら歩ってきてな、納屋の前でぶっ倒れたんよ。記憶にないかね?

永瀬は半ば聞き流すかのように、首を横に振りながら辺りを見回した。どうやらここは農家のようで、六畳程の部屋の壁には鍬やら猟銃をかける為のフックが見られ、土間の上の七輪や石釜の他に、燻製となったヤマドリが数羽、天井から引っさげられていた。そして、まだはっきりとしない意識の中で、瞬きをすると同時にちらちらと何か人間の上半身が映った。

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あれ、あれ・・・?

突然の出来事に戸惑った彼女が、暫く目を瞑ると、ノイズ交じりの映像の中目を瞑った自分の上半身が映し出されていた。事によると、これはこの老父の視線では無いであろうか。

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おまえさんもか・・・?

永瀬は目を開き、無言で老父の方へ向き直った。老父は表情一つ変えずに言った。

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今日になってから、こんな風に他のヤツの見ているものを同じように見ることが出来るようになったんだ。理由はわからん。ところで、ヘリが墜落する前に鳴っていた、あの警笛(サイレン)は、お嬢さんのヘリのものかね?

彼女は老父の問いにはっとなった。

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いいえ、違うわ。

警笛という言葉に、彼女は何かを思い出しつつあった。確か、サイレンが鳴ってからヘリの操縦士がいきなり発狂しだして、ヘリを急降下させだして・・・それから自分は・・・。

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そぅでっか、そうでっか。いやぁ、どうも戦時中の空襲警報を思い出しちまってよぉ、こんなものまで引っ張り出してきちまったよ。

気だるい笑い声を上げながら、彼は傍らの畳に置いた年季の入った旧軍の小銃とばらで置かれた、いくらかの弾薬を彼女に掲げて見せた。おそらく狩猟目的であろうが、明らかに違法品である。永瀬は眉を顰めた。ふと彼女の中に職責からか「銃刀法」という言葉が過ぎったが、今の自分には取るに足ら無い事に思えた。任務だ。国家から受けた密命。あのヘリでこの島に彼と来て・・・そう、彼!
永瀬は目を大きく開け、上半身を布団から乗り出し老父に詰め寄った。

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ちょっと貴方。ヘリには、まだ人はいなかったの?!

突然の若い女性の黄色い声での問いに、老父は少々どもったものの、すぐに応じた。

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あぁ・・・ああ、お前さんだけだったよ。

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現場を見たいわ。ちょっと行ってくるわ。

機敏な動きで布団から身体を上げ、永瀬はそのまま土間に向かい、丁寧に並べられた自分の革靴に足を入れ、扉に手をかけた。老父が後ろからまた何か言ってきた。引き止められるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

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気をつけてくれお嬢さん。どうもあのサイレンのあとから外の様子がおかしい。何だか血みたいに真っ赤な色した雨が降っているしな。

その言葉にふと永瀬は足を止め、一瞬老父の方へ向き直った。

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・・・・・・雨?

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ああ、本当に真っ赤な雨さ。それと、裏の納屋には入らないでくれよ。娘夫婦の孫が寝ているからな。後であいつらに迎えに来させるか・・・しかし、今夜は暑いな・・・。

老父はそれ以上は言及せず、一息つくと再び家屋の奥へ引っ込んだ。


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何なの・・・これは・・・。


外に出てから、彼女には老父の放った言葉が漸く容認できた。
それが何なのかは知る由も無いが、その赤い雨の降り注ぐ地面は火山地帯の大地を覆う溶岩が、いまだにその岩肌の真下で流動しているマグマによってゆっくりと溶解されつつ赤色の水銀のような姿を地上を姿に現しているようにも見え、それは、まだ朝日も昇らない早朝に彼女が立っている、丘の麓から、恐らくはその視界の利かない丘の遥か彼方の闇の深遠までを同じような大地が支配しているに違いないと彼女には思えた。農家の送り火の下、地上に展開されているその光景は、趣味の悪い絵画のようにも見えた。闇、赤い雨、そして仄かな明かり。彼女はしばしその幻想的、かつ異質という概念そのものを集めてかけあわせたような風景に圧倒されていたが、自我を取り戻し、闇の支配する丘の上へ向かって走り始めた。不快な生暖かい風が、丘の向こうの闇から吹き込んでおり、この季節、東の空に見えるはずの明の明星である金色に輝く金星を、どす黒いタールのような雲々が覆っていた。

丘の上では、腰まで伸びきった雑草が彼女を泥濘から守ってくれていたおかげで、一度も転倒することなく比較的短時間でその場を抜け切ることが出来た。そして丘をはさみ、農家の反対側に降りきったところで、暗闇と赤い雨の中、いっそう暗いウラジロガシやアカガシ等の落葉広葉樹が無数に聳え立つ林に差し掛かった。そして風雨の中、目を細めて漆黒の中を凝視すると、闇の中にうっすら白いもやもやしたものが見え、それが今しがた彼女等を乗せてきたヘリの残骸から上がる煤煙であることに気がつくと、ゆっくりと林の中へ歩み始めた。

原生林の中、ベル427の残骸は墜落の衝撃で見るも無残な姿となっていた。キャビンは底部から高木の幹に激突した衝撃で三分の一程の体積になってしまっており、その衝撃の強さを物語っていた。ローターは半分以上が曲がっており、ヘリの後部に位置するアカガシの木々が十メートルにわたりなぎ倒され変形していることから、一度地上に接触してバウンド、もしくはスリップしながらここに至ったことが見て取れた。火は既に赤い雨が消火したのか、先刻見えた白い煙のみがロータースペーサー辺りから上がっていた。

永瀬はさっそうとした動きで操縦室へ上がり、大破したドアの在ったところからコクピットを覗き込んだ。あの発狂したパイロットは恐らく死んだのだろう。しかし悲嘆にくれている暇は無いと、彼女は大破したコクピットの無線機とGPS、据え置きの小型懐中電灯をとりだし、そして機体の後部へ向かい、ブラックボックスを回収。不時着時刻と状況を再度把握した後に、懐中電灯の光を頼りに通信機に手を伸ばした。

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Baby』より『Mother』、緊急事態発令より応答願う。こちら内閣情報調査室の永瀬凛上席分析官。水哭島の上空で・・・

永瀬はそこでふと「パイロットが発狂した」という表現をすべきか迷った。デスクワークが基本である彼女にはこのような状況は未経験であり、なおかつこのような異例の事態に対処する術を見出すのに少なからず時間がかかったのは誰にも責められるべきことではない。永瀬は続けた。

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パイロットの急病により不時着。ヘリは大破して操縦不能。乗員二名が行方不明。至急救助を要請する。繰り返す・・・。

しかし、無線機の向こうから聞こえてくるのは耳障りな雑音のみであった。永瀬は舌打ちすると、無線機のマイクをコクピットの奥へ投げつけると、GPSを床に放り投げた。後にブラックボックスに同封されていた救助用発信機のスイッチをつけたまま操縦席に放置しておいた。

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全く・・・何なのよ一体、何から何まで!! ほんっと、頭おかしくなりそう!!

永瀬は悪態をつき、ヘリの操縦室から再び原生林の中に飛び降りた。暫く頭に血がのぼったような状態になり、大声を出しそうになったが、急に怒りが周囲の変化によりそらされた。彼女は動きを止め、手にした懐中電灯をゆっくり動かしながら、微動だせずにただただ目を動かすだけで周囲の状況をうかがった。

あれほど降り注いでいた赤い雨と、木々を揺らしていた風音が弱まっていったのだ。

林の中の泥濘に当たる雨音の間隔が長くなってゆき、そして消えた。

近くの木々がお互いに擦れる音が消えていき、そして林の全てが音を失った。

完全な静寂が訪れた。

不気味なほどの静寂が、次第に場を支配しだした。

視線を動かさずに執行実包五発が装填された拳銃を腰の後ろのホルスターから取り出し、右腰の位置に構えた。永瀬は自身がその静寂に恐怖していることがわかった。拳銃を前方に突き出し、懐中電灯を持った手と交差させつつ、丘の方へ戻っていった。静寂の中、彼女の足音だけが林の中に木霊(こだま)していた。

林を出た頃には、やや日が出てきたのか、景色が薄青い明るみをおびてきた。しかし、それでも空以外の空間はいまだ闇に包まれ、永瀬の懐中電灯が照らす範囲のみが唯一本来あるべき色を取り戻していた。ふと、丘の中腹ほどに差し掛かった時、泥濘の上で何か足に硬いものが当たったような気がし、彼女は懐中電灯を足元へ向けた。見ると、それは自分の手にしているのと同じ型の拳銃であった。永瀬は屈み、それを持ち上げた。赤色の混ざった泥だらけで、銃身が大きく変形しており、その銃の持ち主が誰であるか判断するのにそう時間はかからなかった。恐らくヘリ
が墜落した時に持ち主である同僚の手から離れたのだろう。

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あいつ・・・。

彼はもうこの世にはいないのだろうか。悲観へ走らされそうになるのをぐっと堪えながら、彼女は変形したせいで少々動きの渋くなったそのリボルバーの弾層(シリンダー)を開き、薬室から五発の実包を取り出した。空になったリボルバーを投げすて、掌に弾丸を転がした。一発は空薬莢であった。ふと彼女の脳裏に、地上に堕ちつつあるヘリでの出来事が走馬灯のように蘇った。永瀬は唇を噛んだ。空薬莢を指で弾き飛ばし、上着のポケットに残った四発の実包を押し込んだ。そして老父の待つ家へ向かおうとした瞬間、再びその静寂が絶たれた。

サイレンだ。

ヘリの中で耳にしたあのサイレンが林の遥か向こう側から響いてきて、それが頭上を掠めまた遠ざかっていった。老父の言うとおり、空襲警報のようなそれではあったが、有機的な生き物の鳴き声にも聞こえた。どこからともなく響き渡るサイレンに不快感を覚え、永瀬は頭を両手で押さえながら座り込み、堪えようの無い嫌悪感の中で再び悪態をつきまくった。
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あぁぁ、何なのよぉ! 何なのこの音は・・・! 吐きそう! きもちわるい!
そして数十秒が過ぎただろうか。サイレンの音が次第に弱まり、遠ざかるそれを察した永瀬はゆっくりと目を開けて立ち上がった。無音が戻った空間で、彼女は左右を見回した。サイレンはもうおさまったものの、先刻と何かが違う気がする。おかしい。何かが明らかにおかしい。すると彼女は何か恐ろしい事が起こるような気がしてきて、一刻も早くあの老父の元に戻ろうと、一気に丘を駆け下りた。