小字浦郷/権藤家
日下 里奈 初日/03時01分16秒
怖い。どうしようもなく怖い。
早く走らなければ、早く逃げなければと思うほど脚は縺れる。傍から見れば滑稽に映るだろうと思えるほど、恐怖でパニックに落ちいった脚には力が入らず、何回も転んでしまう。呼吸することさえ満足に出来ない。酷使しすぎて腫れ上がり、細くなった気道が降参を告げるような苦しげな音を立てていた。
当ても無く走り続けているせいか、同じところをぐるぐると巡っているように感じる。色彩を失った世界に、道端の地蔵のやたらとどぎつい赤色の前掛けが、何度も何度も消えては現れる。恐怖と混乱でどうにかなってしまいそうだった。
もうこれ以上は走れないと思ったとき、ようやっと少し開けた場所に出た。追手の気配も消えている。目の前には教会のような建物。呼ばれたような気がして、巨大な木の扉を押し開く。そこは礼拝堂のような広大な空間だった。前方の祭壇には白いワンピースを着た髪の長い若い女性が横たえられていた。顔は向こうを向いていて、こちらから窺がうことは出来ない。私を呼んだのは彼女…?
歩み寄ろうとした瞬間、横たえられた女性の腕が祭壇から外れ、だらりと垂れ下がった。白い、うっとりするほどたおやかな彼女の手首からは血がゆっくりと流れ落ち、黒い床にみるみる血溜りを作っていく。血の雫が手首から滴り落ちる音が広大な空間に反響し、やたらと大きく聞こえた。
―――里奈…里奈…
やはり彼女だ。彼女が私を呼んでいる。近づいていくと、祭壇の下の血溜りから一輪の大きな花の蕾が立ち上がり、重そうにその頭を垂れていた。
―――里奈…ねぇ…里奈…
私を呼ぶ声はこの大きな花の蕾から聞こえてくるようだ。これは死刑台の下に咲く妖花。この花が咲くところを見てはいけない。なぜなら…。
ゆっくりと、ゆっくりと花が花弁を拡げてゆく。目を背けたいのに、視線はゆっくりと花弁を拡げる花に釘付けとなってしまっていた。
―――里奈…里奈…
私の名前を呼ぶ花の精。花の中心にある彼女の顔は…。
―――里ぃぃ奈ぁぁぁ…!
「里奈…ねぇ里奈ったら!」
「イヤァァァァァー!」
私が体育座りの姿勢から跳ね起きると、そこは見慣れぬ部屋だった。心配そうな顔付きで親友の水無月香夏子が私の顔を覗き込んでいた。悪夢から目覚めても、その内容とあまり変わらない状況になることを思い出して、私は泣き出したい気分に駆られた。私達は誰が住んでいたかも分からない民家に逃げ込んでいた。宿泊していた民宿の女将さんに訳も分からず突然襲われ、二階の客室の窓から飛び降りるようにして逃げ出してきたのだ。何処の家にもありそうな四角い和風の電灯が、居間の障子に飛び散った血飛沫を鮮やかに照らし出している。住人が何処へともなく去った今では、ここで何があったのかは想像するより他ないが、私もこの血飛沫の主と同じ運命を辿ったかもしれないと思うと、肌が粟立つのを感じた。
「ねぇ里奈、大丈夫?寝ちゃうと危ないよ」
ケータイの時刻表示は私達がここに逃げ込んでから1時間ほど過ぎたことを示していた。香夏子は気を利かせて少し眠らせてくれたようだ。
「うん、ごめん。…ねぇ香夏子、私、<あの日>が来ちゃったみたい」
私は、月に一度の<あの日>が来ると、決まって悪い夢を見る。気分もイライラして落ち込み、今はお腹も少し痛かった。これが原因でバンドのメンバーに迷惑を掛けたことを苦々しく思い出していた。
「そう…お薬あげよっか?私持ってるよ」
「うん、私も持ってるから。ありがと、香夏子」
「それならいいんだけど…。にしても、これからどうする、私達?」
ピルケースを探してナップザックを漁る私の背中に、香夏子はそんな問いを発した。これからの私達…あらためてそんなことを聞かれると考え込んでしまう。ナップザックを漁る私の手は止まっていた。民宿の女将さんの他にも、おかしくなった人達を何人も外で見かけた。だとすると、島中のたくさんの人達が同じことになっていると考えるのが自然だろう。そうなると、やはり思い至るのは「島からの脱出」ということになるが…。
「なんとかして島から出ないとね」
「でもあたし達、船の操縦なんて出来ないし、ケータイもなんでだか繋がらなくなってるし…」
「うん…」
楽観的に考えれば、島の人々全員が女将さんのような<化け物>になったわけではないかもしれない。港へ行けば船で逃げようとしている人に乗せてもらえるかも、という話になった。少し楽観的過ぎるかもしれないが、こんな風にでも考えなければ正気を保つのは容易ではない。
私達は覚悟を決めて民家を出た。さっきまで降っていた気味の悪い赤い雨は止んでいたが、その代わり霧が大分濃く立ち込めていた。隠れて移動するには好都合かもしれないが、そこかしこに盆の迎え火の光が乱反射してぼうっと明るく、心を挫かれる様な不気味さが漂っている。
「ね、ねぇ里奈、本当に行くの?」
「こんな所に居てもしょうがないでしょ?…何か武器になるようなものはないかしら」
結局、香夏子は民家の傘立てにあったコウモリ傘を、私は玄関の靴箱の上にあった細長い花瓶を武器に選んだ。この状況ではいかにも心細い武器だが、何も持たないよりはましだ。何か握り締めていると、それだけで落ち着くということもあった。
狭い路地をいくつか抜けて、おぼろげな記憶を頼りに港に続く通りへと辿り着いたが、路地の角からそっと覗き込むと、通りにはいくつもの懐中電灯の明かりらしきものがうろうろしていた。<化け物>供の見張りに違いない。
「ここを抜けるのは無理ね…他を当たろう?」
私は香夏子を促して来た道を引き返した。それにしても、島の路地はなんでこんなにも曲がりくねっているのだろう。カーブを見通して安全を確認しながら進むので、遅々として進まない。階段や段差も多く、緊張と腹痛で疲れが溜まるのも早い気がする。
何度目かの角を過ぎたとき、前方から足音が聞こえてきた。ゆるいカーブになっているブロック塀に、ライトの光が白い円を描いている。私達は咄嗟に民家の敷地に隠れて息を殺した。ざっ、ざっ、ざっ、という足音は私達の隠れているブロック塀一枚を隔てた通りをゆっくりと近づき、そして遠ざかっていった。思わず溜め息が漏れる。
「もう嫌。もう嫌よ、こんなの。耐えられない…」
度重なる緊張に耐えられなくなった香夏子が、私の隣でしゃくり上げ始めてしまった。無理もない。私は黙って彼女の肩を抱き、さすった。
「おやおや、お嬢ちゃん、かわいそうにねぇ。それじゃあ、お歌でも歌ってあげようかねぇ」
突然、辺りに老婆の声が響く。あまりに突然のことに、香夏子は泣くのも忘れて私と一緒に周囲を見回す。だが、声の主は姿が見えない。
「りょうしのおっとさんのいうことにゃ あしたはなだにいなされる なされりゃおよがにゃなるまいよ…」
上だ。声は私達のすぐ頭上から降ってきている。私達は不吉な予感を感じながら、平屋建ての民家の屋根を見上げた。果たして、そこに老婆は居た。その老婆は瓦屋根に這いつくばっている。いや、何か不自然だ。なんだろう、この違和感は…?気が付くと、私はまじまじと手毬歌を歌う老婆を観察していた。
老婆が着ている浴衣の合わせ目は這いつくばっている姿勢ならば背中側にある。帯の結び目も同様だ。腕や脚の関節を見ると、老婆は「ブリッジ」の姿勢をとっているはずだ。しかし、老婆の顔は逆さではなく正位置なのだ。つまり、老婆の顔は人体の構造上あり得ない角度で捩れていた。私は違和感の正体に気付いたとき、絶叫した。
次の瞬間、老婆はブリッジの姿勢のままひらりと身軽にジャンプし、私達が隠れるのに使ったブロック塀にピタリと張り付いて、こう言った。
「かわいそうにねぇ…どうしてやろうかねぇ…」
但し、その声は彼女の通常の口から発せられたものではなかった。顔が中央から縦に真っ二つに割れ、細かい歯がずらっと並んだ凶悪な口からその声は発せられたのだ。その口は、子供の頃川で取った<ヤゴ>を連想させた。私は、もう半狂乱になりながらそいつの頭部目がけて花瓶を叩きつけた。花瓶は派手な音を立てて割れ、化け物は「ギイッ!」っというような声を出して怯んだ。私は恐怖で立ちすくんでいる香夏子の腕を掴んで、その場から逃げ出した。
しかし、大きな音を立ててしまったせいで、あちこちから敵を集めてしまったようだ。どっちを向いてもライトの光が翻っている。次々と現れるゾンビのような化け物達。土地勘が無く、恐慌状態だった私達は、3m位ある金網に遮られた行き止まりにとうとう追い詰められてしまった。
「里奈、早くここを登って逃げて!」
そう言いながら、香夏子は持っていたバッグを下ろし、コウモリ傘を構える。彼女はここに留まって、私だけでも逃がそうという考えのようだ。
「香夏子、何言ってんのよ」
「いいから早くっ!」
「ずっと一緒って言ってたじゃない!」
「私の命に代えても、あんたを死なせるようなことはしない…早く逃げて!」
その瞬間、押し寄せる化け物の群衆の更に後ろに現れた人影が、鋭く「伏せろ!」と叫んだ。私は咄嗟に香夏子の頭を押さえ込んで、彼女に覆いかぶさるようにして地面に伏せた。次の刹那、行き止まりの路地にタタタタタッ!という太鼓を連打するような音が響き渡り、閃光が翻った。嵐のような音と閃光が収まってから顔を上げると、私達を追い詰めていた怪物は、四体全て倒されていた。
「大丈夫?」
そう言いながら近づいてきたのは、まだあどけなさの残る、迷彩服を着た青年だった。皮膚も髪の毛も異様なまでに白いのが奇異な印象だが、ハンサムな青年だ。私は警戒しながら、質問を質問で返した。
「あんた、誰?」
すると彼はこめかみの辺りを指で掻きながら、苦笑して言った。
「僕は吾平、吾平正希。自衛隊だよ。君達は?見たところ、島の人間じゃないみたいだけど」
彼はTシャツにホットパンツという香夏子の起き抜けのしどけない格好をジロジロ見ている。
「あたしは日下里奈。そんでこっちは…」
「水無月です。水無月香夏子。二人とも国文院大学の2年生。助けてくれて有難う」
彼は香夏子の口からお礼の言葉を聞くと、満足そうにニヤッと笑った。
「いやいや、僕もちょうど通りかかったところで、自衛隊として当然の職務を果たしただけだから、ノープロブレムってことで」
「ねぇ、この島一体どうなってるの?あんた達が居るってことは何?戦争?テロ?他の隊員達は何処?まさかあなた一人ってことは無いんでしょ?」
私の矢継ぎ早の質問に、彼は眉根を寄せながら首を横に振った。
「ミッションについては君達に教える訳には行かないけど、僕たちは君らを助けに来たわけじゃないんだよ。島に入ったのは僕も含めて三人だけ。しかもその内の一人は科学者で戦闘の方はからっきしだよ。今はその二人ともはぐれちゃって、連絡も取れない。撃たれて崖から落ちて、トランシーバーは壊れるしナイトビジョンは失くすし…」
そんな悪いニュースを聞いていると、彼の後ろからうめき声が上がった。銃弾を受けて死んだはずの化け物が、うめき声を上げながら再び立ち上がろうとしている。私と香夏子は信じられない思いで目を見張った。
「いけね、こいつらこうなんだ。この向こう側に逃げよう。登れるかい?」
銃声を聞きつけて、更に集まってくる気配もある。金網を乗り越える方が確かに安全に思えた。吾平と名乗った自衛隊員は、私達が金網をよじ登っている間、機関銃は使わずナイフで戦って時間稼ぎをしてくれたが、敵が増えてどうしようもなくなってくると、ナイフを捨てて銃で一体ずつ丁寧に撃ち倒す戦術に切り換えた。恐らく弾丸を節約するためなのだろう。私達は金網の向こう側に飛び降りると、彼に声を掛けた。
「もう大丈夫だから、あなたも登って!」
「早く早く!」
これを聞いた彼は、手近の2、3匹を素早く撃ち倒すと、銃のベルトを肩に掛け、金網をよじ登り始めた。流石に自衛隊員、彼は金網を猿の如くするすると登り、私達の半分以下の時間であっという間に金網のてっぺんに達した。そこで金網を跨ぐようにして体を安定させ、持っていた機関銃で金網をよじ登り始めた敵を2匹倒したあと、こちら側に向かってジャンプした。
その時、信じられないことが起きた。彼の着ていたベストが、金網から突き出た針金に引っ掛かり、彼を宙吊り状態にしてしまったのだ。若い自衛隊員はベストを脱ごうとするのだが、バックルに強い力が掛かって外れない。次に、引っ掛かった部分を切り取ろうとナイフの鞘に手を伸ばすも、先ほど金網の向こうで投げ捨てたのでナイフは手元から失われていた。
「Shit…!」
彼は反対側を向こうとしたり、踵を使って自分の体を持ち上げ、引っ掛かった部分を外そうともがくが、一行に埒が明かない。そうこうしているうちに、化け物と化した人間が次々と金網をよじ登り始めている。
「君らだけでも逃げろ!僕はなんとかするから!」
しかし、どうにもなりそうもないことは私にもわかる。何か、何か手は…。
「あっ、そうだ!」
私は化粧セットの中に顔剃り用のカミソリを入れていたことを思い出した。背負っていたナップザックを下ろし、化粧道具の詰まったポーチからカミソリを取り出すと、それを口に加えて急いで金網を登った。アドレナリンがどっと出て、大量の汗が額を伝う。
「これで貸し借り無しよ…!」
私はベストが引っ掛かっているところまで登ると、そんなことを言いながらカミソリでベストの布地を裂き始めた。丈夫な布地で、なかなか刃が立たない。
「違うよ。最初のピンチと金網を登っているときの援護で、君達に貸しは2つさ」
軽口を叩く彼だが、その額にも私と同様汗が噴き出していた。
「早くして、里奈!」
「わかってるわよ!」
ジワジワとベストの布地に切れ込みが入っていく。横を見ると、金網越しに血の涙を流して嬉しそうに笑う化け物の顔があった。胸に恐怖が去来する。
「もうすぐよ・・・」
生地の糸があと4、5本を残すのみとなった時、彼の体重で糸がブチブチと切れ始めた。そして最後の1本が切れて、彼は地面に落下した。一回転して衝撃を吸収する。私も彼に続いて飛び降りた。
「助かったよ、有難う」
「早く逃げよう?」
私達は金網を登るかつては人だった化け物達を振り返りながら、立ち込める夜霧に紛れるようにしてその場を逃れるのだった。