小字雨女切/県道334号線
市川 信子       初日/01時18分02秒





赤い雨が降り続き世界が変わり、未だにそれが現実かどうかも分からないまま市川は祖母の家に向かって走り続けていた。

いつもは気にしない風の音、虫の鳴き声、草木が揺れる音まで何もかもが恐怖の対象となり、一歩一歩足を進めるごとに孤独の恐怖を味わっていた。

「はぁ・・・はぁ・・」

市川はしきりに息を切らしながら走っていた、誰も追いかけてなど来ないはずなのに。それとも誰かが追いかけてくるような気がするのだろうか?

(ヒッヒッヒ・・・ハァー・・)

―――・・!?―――

甲高い不気味な笑い声が少し遠くから聞こえる・・・

「誰!?誰かいるの?」

後ろを振り向いたがそこには誰も居なかった、聞こえるのは風の音と草木が揺れる音だけである。

―――空耳か・・・

そのまま少し進むとバスの待合所が見えてきた。

―――疲れた・・・少し休もう・・誰かが追いかけて来るわけでもないんだし・・・なんであたし走ってるんだろう・・―――

道を半分ほどきたところで、市川は近くのバス停の椅子に腰を下ろした。バス停は小さな小屋のようになっており、手作りのテーブルを囲むようにして長椅子が並んでいた。

そんなに長い距離を走って無いはずなのに、市川の体はまるで10kmも走った後のような状態だった。極度の緊張とこの異界化した世界が原因だろう。

――― 一人って怖い・・・誰か来てくれないかな・・・―――

そんなことを考えていたときにものすごい頭痛が市川を襲った。

―――痛っ!―――

突然襲ってきた痛みに苦しみながら市川は横になり左手を目の上に置き視界を遮った。すると、目を閉じているはずなのに目の前が明る
くなり頭の中に砂嵐のような光景と「ザーッ」という不快な音が頭の中を廻る。そして、頭の中にうっすらと自分の目の前に広がる光景とは違う光景が見えてきた。

「ハァー、ハァー・・」

荒々しい呼吸音が聞こえる、鍋や食器が散乱していることからこの場所が台所だという事が連想できた。

声の主は年配の女性だろうか、顔は見えないが服装や手の皺などからそう想像できた。青白い手からは僅かだが血が流れている。

「ガシャン、ガシャン」

「パリーン」

食器が割れる音が聞こえる。何かを探している様だ、しきりに物を落としたりよけたりしている。

流し台にはまだ洗われていない皿や箸が無造作に置かれ血のような液体がチョロチョロと蛇口から流れていた。

「ハァー、ハァー・・・・ヒヒヒヒヒ・・」

女性の動きが止まった、どうやら探していたものが見つかったらしい。

女性の手には人の指などがすぐに叩き切れそうな出刃包丁が握られていた。長い間使っていたらしく所々に修理した後が見えた。

近くに肉や魚などの包丁を使うような物は見当たらない、なぜ出刃包丁を探していたのだろうか?

「ハァー、ハァー・・・・イ、イヒヒヒヒ・・・」

女性の聞くに堪えない甲高くそして不気味な笑い声が大きくなったかと思うといきなり玄関の方向へ走り出し外に出た。

―――あれ、今の別の人の目線・・?―――

―――でも、あそこは叔母さんの家だよね・・・私の荷物もあったし―――

市川は見ていた、その女性が玄関に向かう途中に自分のまとめていた荷物があったのを。

気が動転していて気づかなかったが、今まで市川が見ていた光景は市川が泊まっていた古田家で行われていたことになる。

―――もう・・・なんなのよ・・何がなんだか分からない・・―――

そして、あの女性は市川の叔母のよしえということになるのだろうか・・・・

頭痛をこらえながら市川は考えた。

―――おばあちゃんの、家に行くよりも今あった出来事を確かめよう―――

―――叔母さんはきっと家で笑顔で待っててくれるはずだから・・・―――

そう強く願い方向を変えてもと来た道を引き返した。

赤い雨が、電柱の明かりに照らされ何とも不気味な光景だ。まるで、この黒い空の上で沢山の人が殺されてその血がこの地上に降り注いでいるようでとても恐ろしかった。

そんなことを考えながら水も赤くなった不思議な棚田を見ながら家路を急いだ。

そして、とうとう家の前に着いた。懐中電灯で表札を照らすと古田家の文字が雨に濡らされ少し赤く見えた。

また、郵便受けの上に置いてある飲み干した牛乳瓶には血のような雨が溜まっていた。自分が飲んだ後の物だと思うとまるで自分の血を牛乳瓶に吐いたようで気持ち悪くなった。

玄関の戸は半開きだった。よほど急いで家を出たように見えたが何をそんなに急いでいたのだろうか?それも包丁を片手に奇声を上げながら
・・・狂ってるとしか言いようが無い。

玄関から少し進むとあの誰かの目線で見た荷物があった。あの映像と全く同じ、どこも変わらない。市川はあの映像の中で出てきた家を今までここだと確信できなかったが今この家だと確信した。

壁にかけてあるカレンダー、日本人形の置物、大きな壁掛け時計、仏壇、何もかもがあの映像に出てきた物と一緒だった。唯一違うのは全く人の気配が無い静まり返ったこの空間。

いよいよ居間への扉へと手をかけた。もう諦めかけていたが「そこにいて欲しい」という願いは捨て切れなかった。

―――きっと、居るはず―――

改めて強く願いをこめて扉を開けた。

そこにはひどく乱雑な光景が広がっていた、引き出しや食器棚は全てあけられて割れた茶碗や食器がいたるところに散乱していた。

当然叔母の姿はなく「シーン」という音が頭の中に響くだけだった。

―――居るはず無いよね・・・―――

落ち込みながら荒らされた家を見回している市川にまた頭痛が走り砂嵐のような物が見えてきた。今回の頭痛は前回より酷くは無かったが苦しいことに変わりは無かった。

―――・・・・―――

あまりの衝撃に市川は言葉を失った。今度は洗面所と思われる場所で男性が仰向けになって死んでいる光景が目に飛び込んできた。

その側には包丁を持った人が一人笑いながら座り込み男性の顔を覗き込んでいた、恐らくこの男性を殺害した人物だと思われる。右手には包丁が握られていて血が滴っている。

男性は既に絶命していた。ドクドクと流れている生暖かそうな血を見るとつい先ほどまで生きていたと思われる。最後の最後まで抵抗して亡くなったのだろう、横の壁には何とか逃げようと爪で引っ掻いた後がありその証拠に男性の爪も剥げ血が流れていた。

「ハァー、ハァー・・・ヒヒッヒヒ・・ハァー・・」

―――人を殺して笑うなんて・・・―――

そしてその人は男性が死んだのを確認するとゆっくりと立ち上がろうとした。

すると洗面所の鏡に男性を殺害した犯人の顔が映った。

―――お、叔母さん!?―――

青白く不気味な顔に瞳孔の完全に開いた目、その目からは血の涙のようなものを流している。顔には返り血がつき髪の毛はぼさぼさに乱れていた。しかし数時間前まで一緒に過ごしていただけあってすぐに認めたくは無かったが叔母と分かった。叔母は双子ではないし島には似ている人などいなかった。船は朝からしか出ていないし島に入る手段は無い、例え島に入れる手段が他にあったとしてもこんな小さな島ではすぐに噂になり耳に入ってくるに違いない。

つまり、今の人物は市川の叔母に間違いないのだ。

視界が戻ると市川は嘔吐した、死体を見たというのもあっただろうがやはり叔母が化け物と化して人を殺していたのが一番の理由だろう。数時間前まで優しかった叔母が人を殺し楽しそうに甲高い笑い声を上げていたのだから・・・。

「うっうっ・・・」

胃のものを全て出し終えると涙がこみ上げてきた、そして部屋の隅までフラフラと歩くとうずくまり泣きながら自分を責めた。

―――叔母さんの様子変だったのを分かっていたのに・・なんで気に留めなかったんだろう・・・

―――あそこで私が気にかけて傍に付いていてあげればあの人は死なずに済んだかもしれない・・・

―――私があの人を殺したんだ・・

そんなことを考えていると「もし自分があの状況だったら・・・」という不安が襲ってきた。

―――この島から逃げなきゃ・・・。でも夜に行動するのは危険だし朝まで外の様子が良く見える二階で待とう。

―――まずは身を守るものが必要ね。

そう思い立つと叔母が趣味でやっていたゲートボールのクラブを取った。

二階の階段は洋間と風呂を抜けていった一番奥にある。その階段を懐中電灯で足元を照らし、ゆっくりと一段一段上がっていった。

二階は三部屋に分かれていて、一番奥の部屋は道に面したガラス戸がありここから外の様子が良く分かった。

そして傷んだ柱に背中をもたれて夜明けを静かに待った。