水哭島フェリー船上
上山 沙希 2日前/10時13分40秒
上山沙希が夫に先立たれて、明日で丁度3年になる。
彼女の夫の死因は、自殺だった。
家業であった弁当屋が、主な得意先だった近くの工場の倒産のあおりを受けて立ち行かなくなり、借金に借金を重ねたが、それで展望が開けるわけもなく、苛酷な取立てに絶望した末の自殺だった。遺書は今も彼女の薄汚れた旅行鞄の中に大切にしまわれている。
「疲れた。俺の生命保険金を返済に充ててくれ。約束を果たせず、すまん。」
そう書かれた夫の遺書には、沙希の涙の跡が点々と付き、所々インクが滲んでいた。
「約束」とは、彼のプロポーズの「君を島から救い出して、絶対に幸せにする」という言葉のことだった。沙希にとって、暗い因習に縁取られた島からの脱出は、空想はしても叶わぬ夢だと思っていた。この島に生まれた者は、この島で死んでいくほかない・・・彼女はそう思ったし、島の因習が彼女たち島民を島に縛り付けているのは事実だったのだ。
同じ島の出身で、「君を島から救い出す」と言ってくれた夫との生活は、島で一緒に生活を始めてからも、島から出た後も貧しかったが、楽しい日々だった。子供にも恵まれた。その意味では、彼女の夫は約束を果たしたと言えた。
なのに。
「あ゛ーあ゛ーあ゛ー。だいだっだぁー。」
フェリーの甲板上で彼女の一人娘、朋美が群れ飛ぶカモメとじゃれてはしゃぐ。もう12歳になるが、彼女がしゃべる言葉は、こんなうめき声のような言葉に限られた。彼女には知能障害があった。
沙希は島を出る前に朋美を生んだ。島の奇妙な風習の一つに、本島である水哭島と砂州でつながった小島、神涙雫島で子供を生む、というものがあった。そうすれば子供は島で信仰されている神の祝福を受けられる、と言われていた。その小島には、その名と同じ「神涙雫」という泉があり、その泉で生まれた赤ん坊を洗うのだ。朋美はその時事故で泉に転落して溺れ、脳に後遺症が残った。夫とめぐり合えた事と、朋美を授かったこと以外、島であったことに良い思い出はない。
夫を失った沙希は、彼の残してくれた殆ど唯一の財産と言える保険金で、借金の一部を返済した。だが、返済できたのは借金の半分を少し上回る程度の額だった。あくどい所から借りた借金は、利子でどんどん膨らんでいく。彼女自身、パートで身を粉にして働いたが、少しも元本は減らなかった。障害のある朋美を抱え、沙希は追い詰められていった。「楽になりたい。夫の元に行きたい」沙希は次第にそう思うようになった。
そして今、沙希は故郷に向かうフェリーの上にいた。あまりいい思い出のない島だが、最後は生まれ育ったあの島で迎えたいと思った。安堵するような潮風の香りを、胸いっぱいに吸い込んで死にたいと願った。
だが朋美は、島行きを泣いて嫌がった。彼女には物心付いたときから不思議な力があった。これから起こることをどういうわけか事前に察知することが度々あるのだ。一度など、沙希が交通事故に巻き込まれるところを、朋美が危ういところで救ったことさえある。だから朋美が島行きを嫌がるのは、ある意味当然のことと言えた。沙希は朋美と一緒に死ぬつもりだったのだから。
朋美の上を飛んでいたカモメの群れがふいに去った。
「おぉ、島じゃ。島が見えてきよった。」
甲板上のベンチに座っていた初老の女性が立ち上がってそう言う。
彼方に、霞んだ島影が見えた。その姿は、8月の陽光を受けてなお暗く感じられた。
「う゛う゛ー、うあー・・・」
「ごめんね朋美。でもお母さんも、もう疲れちゃった。」
カモメと戯れているときとは一転、泣きそうな顔をしながら母と島影を交互に見つめる朋美に、沙希はそう言うしかなかった。朋美が感じる不安は、沙希が考えているものとは異質なものであることに気付きもせず。
・・・不吉な島影は、ますますその黒さを増していた。