小字浦郷/消防団小屋前
浅田 寛人       前日/12時07分21秒




 「甘過ぎる。母さんのシュークリームが食べたいな・・・

 僕は歯型の付いたアンパンを見つめながら、一人ごちた。
 雲に覆われて山頂を拝むことが出来ない水哭富士の、その麓の神社前に立てられた2本の(のぼり)が、遠目にも強い浜風に煽られてはためいているのがわかる。辻々に張り渡された注連縄(しめなわ)の白い(ぬさ)も、はたはたと音を立てる勢いで翻っていた。

 (一雨来るだろうか・・・?)

 低く垂れ込める雲が風に流される様子を、僕は不安げに見上げた。沿道に三々五々集まってきた島の人々の中にも、傘を手にしている姿がちらほらと見受けられた。島の人々と言い、この天気と言い、そして昨夜の奇妙な儀式と言い、祭りだというのにどこまでも陰気な島だ。

 (こいつを買うときだって・・・

 手に持った食べかけのアンパンを齧りながら、僕は消防団小屋の斜向かいにある小さな商店でのやり取りを思い返していた。何か軽く腹に入れておこうと思って入ったその店は、この曇り空なのに明かり一つ点けず、しかも何かすえた様な匂いが漂っていた。当然ながら客は僕一人。店番の中年女性は、店の中の縁台に腰掛けながら、その奥の居間にある小さなテレビを見ていた。「今日は」と声を掛けても振り向きもしない。店内にはテレビ番組のやたらかしましい観客の笑い声だけが響いている。棚に並んだパンを見ると、いくつかは既に賞味期限が切れていた。僕は棚からアンパン、冷蔵庫から牛乳を手に取った。

 「お願いします」

 わざと大きい声を出してレジ台に商品を置くと、店番の女性はチラッとだけ置かれたものを見て、気だるそうに「180円」とだけ言った。するとテレビが「アハハハハ」と不愉快な笑い声を上げた。僕は釣り銭こそ受け取ったものの、商品はレジ台に置かれたままだった。レジ台の裏にレジ袋がたくさん掛けられているのが見えたが、この女性に商品をレジ袋に入れるという発想は全くないらしい。元々レジ袋は断るつもりではいたものの、気にも掛けないというのは客商売としてはいただけない。内心釈然としない心持ちでパンと牛乳を掴んで店を出ようとした、その時だった。

 「うああああ、ぁあああああ、ぅあああああー」

 不意に店の奥から女性の喚き声が響き渡った。何かがガタガタと揺さぶられる音もする。僕はギョッとなって、思わず振り返った。奇声と言っていいその女性の声は、暫く経ってみても止む気配はない。それどころか、何かをガタガタと揺さぶる音は段々と大きくなってさえきていた。

 「今夜来る!今夜来る!ぅあああ今夜来るよぉぉぉー!!」

 僕は堪りかねて、相変わらずテレビを見続けている店番の女性に声を掛けた。「あのー・・・?」

 「ちっ、うるさいね・・・

 彼女は大儀そうに立ち上がると、店の奥に姿を消した。その後暫くすると女性の喚く声と揺さぶる音は収まったが、店番の女性が再び店先に姿を現すことは無かった。

 近くの電柱で突然ひぐらしが啼き始めた。

 「・・・そうか、あれが・・・
 (かみおりさん、か―――

 島の役場出張所の図書室で見た『水哭島郷土誌』の記述の中に、「かみおりさん」の項目があったのを思い出した。それによると、今日5年振りに行われる奇祭「御岬廻り」の夜、選ばれた男性の「妻」に神が取り憑いて神懸り状態になることが稀にあり、その女性を「かみおりさん」と呼んで一生大事にする、ということだった。これは考えてみると妙な話だ。「御岬廻り」で選ばれるのが男なら、なぜその男ではなく「妻」に神が降りるのか?全国的に見れば、たしかに神や霊を降ろす「依代」を女性が務めるのは一般的な傾向ではある。ではなぜ最初から女性を選ばないのだろう?それに錯乱の症状が重過ぎるのも気に掛かる。通常であれば憑依によるトランス状態は儀式前後の一時的な症状で終わり、その後依代は通常の精神状態に回復する。ところが「かみおりさん」はその症状は「一生」回復しないらしい。あまりに(むご)い「神の御業(みわざ)」だ。

 海岸へと続く目抜き通り沿いに、徐々に人だかりが出来つつあった。昨夜選ばれたの行列が、幟が立てられた神社兼網元の屋敷からこの目抜き通りを抜け、御岬廻りのスタート地点である羽鳥岬へと向かうのを見送るためだ。この日に限っては羽鳥岬へはごく限られた人間しか立ち入ることが出来ず、島民はここで矢当雄を見送るのだという。道の真ん中を空けるように集う島民達は多少ざわついてはいるものの、祭りに付き物の太鼓やお囃子などは一切無い。まるで葬式のようなしめやかさだなと、僕は背中に薄ら寒いものを感じながら思ったものだ。

 群集の中から「おお・・・」という溜め息にも似た喚声が上がった。社の重々しい扉が開き、短い袴姿の男達に囲まれて、矢当雄達が現れたのだ。皆白い単衣(ひとえ)を着せられている。滝打ちの修行に向かうようにも見えるが、この祭りの本当の意義に薄々気付き始めていた僕の目には、その姿はまるで死に装束のように映った。

 矢当雄達が蛇のようにうねった坂道を降り、やがて目抜き通りに入ってきた。