東京都永田町 内閣府庁舎 内閣情報調査室
永瀬 凛         前日/02時41分36秒




 「何よ!」
 いかにも学生気分が抜けきらないといった顔立ちの若い部下、長谷川に庁舎の廊下で呼び止められたとき、内閣情報調査室(内調)の上席分析官、永瀬は反射的にこう口走っていた。

 「おっと・・・今日はまた一段と荒れてますねぇ」
 「・・・ごめん、色々あってちょっと疲れてるの・・・」

 わずか150人程度の職員で内閣の政策決定を左右しかねない国内外の情報の収集・選別・分析をしなければならないという内調の激務に加え、彼女は夫と娘の裕美の親権をめぐって離婚調停の最中であることもあり、ここ数ヶ月イライラする日々が続いていた。彼女に近づくときは慎重に、というのはすでに内調の中では暗黙のルールとして定着しつつある。

 特に昨日の昼の裁判所の調停では、夫の弁護士が彼女の勤務が激務であることを指摘、ろくに娘の面倒を見られる状態ではないという主張をされて、調停委員がそれに明らかに興味をそそられていた事が腹立たしかった。それが事実であるだけに、余計に頭に来る。夫にも、夫の弁護士にも、調停委員にも、そしてこの仕事にも。

 「そうですか・・・あ、そんなことより、面白い話があるんですよ。ここではなんですから、こっちで話しましょう」
 「悪いけど、私急いでるんだけど」
 「この内調の中じゃ、誰だって急いでますよ。永瀬さんの興味がある話だと思うんですがね・・・なんせ、[対象]の情報なんですから」
 「なんですって!何で早くそれを言わないの!?」

 午前2時という時間にもかかわらず、蛍光灯で煌々と照らされた廊下を行き交う多くの職員が、声を張り上げる美女を奇異な目で見ながら通り過ぎていく。

 「と、とにかくこっちで話しましょう」
 長谷川は手近の誰もいないミーティングルームに永瀬を半ば無理やり引っ張り込むと、ドアを閉めて大袈裟に溜め息をついて見せた。
 「永瀬さん、ちょっと声大きいですよ」
 「ごめん・・・それで、[対象]の情報って何?何か掴んだの?」
 「ええ・・・奴の尻尾ってわけじゃありませんがね・・・」
 そう言いつつ彼は持っていたブリーフケースの中から薄い書類の入ったクリアファイルを取り出すと、テーブルの上に置いた。
 「これは?」
 「昨日の夕方、国交省の関東運輸局に提出された、陸自の輸送ヘリのフライトプラン(飛行計画書)です」
 「フライトプラン?一体それがなんで[対象]と関係あるのよ?」
 永瀬が長谷川にそう問うと、彼は得意そうな笑みを浮かべて言った。
 「その乗員の名前のとこ、見てくださいよ」

 そういわれた彼女が乗員名簿に目を走らせると、あった。奴の名が。
 「・・・柘植・・・!」
 乗員名簿には、防衛庁近代戦研究所の主任研究員、柘植 拓巳の名前があった。内調は、以前から防衛庁の研究予算を横領している疑いがあるとして、警視庁と合同で柘植をマークしていた。内閣情報調査室の国内部門にも5人の調査チームが設置され、柘植を含む防衛庁・陸上自衛隊の幹部数人が監視対象者となっていた。永瀬は、警察庁からの出向者ということもあり、犯罪の臭いのするこの件の調査には人一倍熱心だった。

 調査を続けるうち、柘植らが何か予算の付かない極秘の研究に予算を流用しているらしいことが判明し、チームは危機感を強めていたが、それ以上の情報かなかなか掴めず、攻めあぐねているのもまた事実であったのだ。そこに、この情報である。

 「行き先は・・・陸上自衛隊瀬島駐屯地?サイバネティクスの専門家が、日本海に一体何の用なの?」
 「そこまでは分かりません・・・。北朝鮮や中国、ロシアと何か繋がりがあるのかも?」
 「・・・妙ね。そんな外国と接触しているという話は警察庁の外事局からも一切無いけど・・・。それにしても、よく掴んだわね、この情報」
 「まさか柘植もこっちが陸自のフライトプランに興味があったなんて夢にも思わないでしょうからね。別のチームがたまたま陸自の通常のルーティーンでないフライトプランを検索にかけましてね。先ほどHITしたのがこれ、というわけです。それを僕のところに」
 そう言うと彼は愉快そうにからからと笑った。

 長谷川はまだ入庁2年目だが、人なつこい性格とチャーミングな笑顔であちこちに人脈を築いていた。そういうわけで彼のところには意外な情報が転がり込むことが時々ある。永瀬はそんな彼に感心しながら、早速椅子から立ち上がった。

 「キャップとDI(※)に報告するわ。情報収集衛星で追跡できないか、交渉してみる。それから・・・」
 彼女は自分のスーツ姿に目をやり、一瞬困ったような表情を浮かべた。紺色のタイトスカートがスタイルの良さを強調して、彼女に良く似合っている。
「着替えて、早速追うわ。長谷川君はヘリを用意させて」


 「僕も行きますよ」
 「あなたはお留守番」
 永瀬がミーティングルームのドアから顔だけを覗かせてそう言ったあと、バタンとドアが閉じられた。

留守番と上司から告げられた長谷川はふてくされていたが、後に彼は上司のその言葉に感謝することとなる。

※DI=Director of (Cabinet) Intelligence 内閣情報官の略。内閣情報調査室のトップ。