風が緩んできた。

 太一以外の矢当雄は泳ぎに問題無く、岬の絶壁に沿って定められたコースを多少ばらけながらも進んでいく。船頭の平助はその最後尾からゆっくりとそのグループについて船を進める。文哉たちの乗るこの漁船の役割は、矢当雄たちの監視だ。羽鳥岬の付け根の北側で海に突き落とされると、上陸できるポイントへは最短で約4km。羽鳥岬の突端を回って、御来ヶ浜(みきがはま)へと向かうコースを泳ぐほか無い。しかし泳ぎの得意な者ならば、それとは反対側、つまり島の東側の絶壁に沿って泳ぎ、島の南側の雨女切(あめぎり)集落に上陸することも不可能ではない。それを防ぐのがこの船の役目なのだ。矢当雄たちには、この船が高祖宗蔵の眼差し、いや、高祖家の権力そのものに映っているに違いない。そう思うと、文哉はやり切れないような、叫びだしたいような気持ちにかられた。

 緩んではきたものの、時折強くなる風がまるで口笛のような音を鳴らす。文哉は腕時計を見た。矢当雄が海に飛び込んでからかれこれ1時間ほどが経過している。岬突端の灯台まで、あとわずかと言うところに差し掛かっていた。
 文哉は灰色の空をバックに浮かび上がった、まるで鋸の様な断崖のシルエットを注意深く見つめ、誰も陸地からこちらを見ていないことを確かめると、クロロフォルムの入った小瓶をポケットから取り出して蓋を開け、ハンカチにクロロフォルムをたっぷりと含ませた。そして、船の舵を握る平助の背後に静かに近寄ると、おもむろにハンカチをその口元に強く押し付けた。平助は最初何事かと抗ったが、すぐに文哉のスリムではあるが引き締まった身体の中でぐったりとなった。文哉は気絶した平助を船室の壁にもたれるように座らせると、代わりに舵を握った。そして、最後尾から順に泳ぐ男たちに声を掛け、船の上に引き上げた。

 「大丈夫なのか、文哉?こんなことして・・・」
 引き上げられた矢当雄たちは船縁にもたれかかり、ハァハァと息を切らしていたが、やがてそのうちの一人、彼より年上の河嶋洋司が口を開いてこう尋ねた。
 「責任は取るつもりです。皆は僕と平助さんを適当な所に降ろして、この船で逃げてください。あとはこっちで時間を稼ぎますから」
 文哉は、今年の御岬廻りで初めて監視役を務めることが分かってから、こうすると心に決めていた。こんな馬鹿げた儀式で人が命を落とすのはおかしいと昔から感じていた。
 「しかし、大変なことになるぞ・・・」
 「今なら入身(いりみ)の鳥居の辺りには誰もいないはず。親父たちは御来ヶ浜で矢当雄を出迎えねばなりませんから。この隙に島の東側を通って本土へ逃げられますよ」
 船の中を重苦しい沈黙が支配した。矢当雄たちも逃げるのはやぶさかでないが、島がこの後一体どうなるのか、皆目見当がつかない。彼ら水哭島の島民にとって、この島の風習は単なる「風習」に留まらない。取り返しのつかないことになるのではないか、という漠然とした不安が、彼らの動きをまるで見えない紐のように縛り上げて封じていた。

 「こうしている時間がもったいない。御来ヶ浜からいつまでもこの船が見えなければ、怪しむ人たちが出てきます」
 「・・・文哉さんの言うとおりです。島から逃げましょう、洋司さん。大変なことになら、既になってますよ。こんなおかしな島に、もう未練なんて無い」
 矢当雄の中の一人がこう言うと、他の者たちもうなずいた。しばらく目を閉じて思案していた洋司だったが、そのうちに覚悟を決めたようにうなずき、島を出ることに同意した。

 「ありがとう、文哉。多分、これで二度と会うことはないだろう」
 岬の突端近くの岩礁に気絶している平助を降ろすと、洋司と文哉は固く握手を交わした。
 「これからも元気で。太一や、他の犠牲になった人たちの分まで生きてください」
 「そうだな・・・太一に、せめてここまで泳ぐ力があれば・・・」
 漁船が岩礁を離れていく。文哉と矢当雄の男たちはいつまでも手を振り合っていた。相変わらずどんよりと低く垂れ込めた空の下を、白い漁船がみるみる小さくなっていく。八月なのにもかかわらず寒々しい暗緑色をした海に、漁船の白が良く映えていた。

 文哉達の取り残された岩礁の上を、一羽の鳶が旋回している。風が止んでも一向に暖かく感じないのは、何か良くない事が始まるのではないかと言う漠然とした不安からか、それとも得体の知れない物に見つめられているような感覚からか。はるか遠く、水平線の手前に雲間から注ぐ異様な色をした光の筋を、文哉は慄然たる思いで見つめていた。